走り抜ける君へ 3


仰げば尊し。聞き慣れたメロディは眠気を誘うのに十分な威力を発揮する。いっそ眠ってしまえれば楽なのだが、在校生の歌やら校長の式辞やら、いちいち立たなくてはならないのが卒業式。名簿順で前の方に座るリョーマにはなかなかの拷問だった。

「手塚国光」

その名前だけがやけにクリアに耳に届く。卒業証書授与の時にもそれで一瞬だけ覚醒した。まあ、すぐに眠気に負けたのは言うまでもないが。 今度は何かと思って顔を上げると、見慣れた背中が立ち上がる。颯爽と壇上に向かう姿は堂々としていて、威厳があった。本当に年齢詐称を疑いたくなる。

「――卒業生、答辞」

内容は頭に入らない。真摯に文章を読み上げる表情を、声を、拾うことだけに意識を集中していた。
ああ、この人は、卒業するんだ。
ようやく実感したのが、今日。

式が終わり、在校生が卒業生を囲む。むせび泣いたり、煩い声があちこちで広がる。
一応、テニス部レギュラーの近くまでは来たリョーマだったが、予想以上の盛り上がりに若干引き気味で輪の外から眺めていた。どうせこの後、テニス部全体でのお別れ会なるものもある訳だから話したければその時に話せばいいじゃないか、と。
なんだか長引きそうな予感を抱いて、終わるまでどこかに避難していたい気分になる。携帯があるから呼ばれるときは呼ばれるだろう、そう結論付けてそっと喧騒から抜け出すことにした。
何も考えずに歩いていたら、いつの間にかコートに辿り着く。体育館から少し離れればグラウンドなんだから当たり前と言えば当たり前だ。
静かなコート、見慣れたコート。でも、もう同じ場所ではなくなる。
既に変わっていたのだ、三年生が引退してから。しかし、それでもまだリョーマは一年生だった。
ルーキーとして踏んでいた地面は、来月には先輩として踏むことになる。
 
一年生は、今日で終わる。

くるりとコートに背を向けた。まだ、心構えができていない。
今さっきいきなり自覚した諸々をすぐに取り込めるほど器用でもなかった。頭を振って部室に向かう。
少し、休みたい。
 
だが、世の中とは上手くできているもので、休むどころか更なる試練を与えてきた。試練というか、ある意味チャンスかもしれないが心の準備がないのは辛い。
こともあろうに、部室の中には手塚が居た。

「越前か」

まだ後ろでも向いていてくれたら気付かれる前に扉を閉めるなりできたのだけれども、残念ながら相手はこちらに向いていた、いや、向いたところだったというのが正しい。素晴らしいタイミングだった訳だ。

「ども、お疲れ様ッス」
「ああ」

とりあえず挨拶してみたものの、会話が続かない。
想定外の出来事に割と困ってしまい、更に沈黙のまま手塚も動かないものだからどうしたものか。

「答辞」
「なんだ」
「答辞、起きてましたよ。一応」
「そうか」

再びの静寂。微妙に視線が泳ぎ、逸らした先で目に入ったのはホワイトボード。
卒業おめでとうございます、と大きく書かれた周りに散らばる、部員たちのメッセージ。 
その中にはもちろん、自分の書いたものもある。

「ありがとうございました」
「越前?」
「俺、それしか書いてない」

指で示した場所に、小さく書かれた文字。

「実感なかったし、あったとしても何書けばいいとか何を伝えたらいいとかわかんないし。ひとりひとりに思ってることとか違うし。それをちょっと書いてみろって方が無理だよ」

お前は素っ気無いな。書いた時に言われたのがそれだった。そうかもね、と返して終わった。

「卒業ったってほとんどが持ち上がりで進学するし、英二先輩とか遊びに来る気満々だったし、変わるとか、引退した時だってあんまり考えなかった」

新しい部長が決まっても、手塚の呼び名は改めなかった。リョーマにとって部長とは手塚を指す言葉に他ならなかったのだから。でも呼んだら訂正と小言が飛んでくるので、「ねぇ」だの「ちょっと」だの、呼びかけの言葉で誤魔化した。皆が呼ぶように「手塚先輩」とは呼ばなかった。違う、呼べなかったのだ。

「部長のいないテニスはやだ」

空中にやだ、の文字だけ書いて、くしゃりと笑う。

「俺がアンタに贈る言葉があるとすれば、それかな」

言い終わり、ふぅ、と息をつく。考えながら喋ったおかげでなんだか疲れた。ついでに立っているのも疲れてきたので、適当な椅子に腰掛ける。落ち着いてみて何かがおかしいと思う。
 
――あれ?そういえば部長の反応がない。

喋るのに精一杯だったから終わってつい満足してしまった。途中まではほとんどホワイトボードを見ながら喋っていたし、最後の言葉だって本人を見ていたか定かではない。むしろあまり見ていなかったからこそ言えたとも考えられる。 そう思うと確認するのが躊躇われる。しかし言っておきながら相手を放置はできず、言った勢いで部室を出てしまえば良かったかもしれないなんで考えだす。
埒が明かないので諦めて様子を伺った。

手塚は止まっていた。それはもう見事に。
驚きの表情を見たことがない訳ではないけれど、固まっているのはさすがに初めて見た。

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