夢だっていいじゃない 3 「スイス?!」 久々に会ったもう一人の先輩、秋の大きな声に持っていた紙コップを取り落としかける。 カフェテリアで三人揃ってお喋りする合間、ぽろりと口から零してしまった進路の話。 紅茶をひと口飲んだ夏未が静かに言った。 「全寮制の大学だなんて…また随分極端な進路変更ね」 「未来の兄嫁がかつて学んだという大学なのよ。ぜひにと進められては断りにくくて…」 妹がいたら絶対に入学してほしいと思っていて、なんて言われて首を振るのはなかなか難しい。 秋が心配げに声を掛けてくれる。 「お兄さんには相談したの?」 「いえ、反対するに決まってますし」 「なら、どうするつもり?」 夏未の切り込みに口を噤む。 うんうん唸り始めてしまった春奈は結論を出せず、お茶会はうやむやな締めとなった。 別れた帰り道、後姿を見送ってから夏未が話題を続ける。 「……本気で悩んでるみたいね」 「春奈ちゃん、優しいから…」 自分の希望を捻じ曲げかねない後輩を思って、二人の顔は曇ってしまう。 ややあって、不審げな声が秋から上がる。 「スイスに行く必要って、あるの?なんだか少しおかしいと思うの」 夏未を見る視線の強さ、受け取った彼女は覚悟を決めたように言葉を紡いだ。 「――悪意のある見方をすれば、新婚生活のお邪魔虫を遠くに追い払いたいのでしょうね」 頷きあった二人は、そっと手を取り合った。 「…スイス?何の冗談だ」 事の次第を聞いた鬼道が訝しげに腕を組む。 やはり伝えて正解だと思う反面、告げ口というのも少し後ろめたい。 「あの、私たちが言ったっていうのは…」 「わかっている、ありがとう」 控えめな秋の言葉に笑って頷き、安心させるよう次いだ。 「もうしばらくの間、観察してみよう」 「観、察?」 夏未の疑問系への答えは返らない。 特に変わりのないまましばらく。 鬼道宅の庭でお喋りに花を咲かせていた少女三名は、春奈の静かに、のジェスチャーで様子を窺う。 見れば、噂の兄と女性が歩いてくるところだった。 視線で問う二人に対して、春奈が軽くウインクをする。 「そう、気を利かせたの。婚約は時間の問題だっていうのにいっこうに友達以上の進展がないから。きっと私に気を使ってるのよ」 悪戯っ子のように笑うのに、夏未が思わず呟く。 「気を使ってるのは誰かしら」 「え?」 「なんでもなくてよ」 詳しく聞こうとする前に、兄たちの会話が耳へ入る。 「海?」 「ええ、有人さんがお嫌でなければ、これから…」 「では少し待っていてください。妹を呼んできますから」 ――二人でいきなさいよ、二人で。 心中のツッコミを声に出さないよう必死の春奈。 夏未と秋はただ見守るに徹する。 鬼道の言葉を受けた女性が、微笑んだまま穏やかに言う。 「有人さんは、本当に妹思いでいらっしゃるのね」 次に僅かに首を傾げ、ねだるような音を含んだ。 「でも、たまには妹さん抜きでお話したいわ。二人きりでお話したいこともあるし」 春奈を除く二人が視線を交わす。 本人は一人でうんうんと頷いた。 「そうよね、それが当然だわ」 小声で零すがしかし、兄は黙ったまま動かない。 寡黙はいつものことでもあるが、返答にこんなにかかるのはおかしかった。 春奈の頭に疑問が浮かぶ。 ――兄さん、どうしたの。 誘った女性も沈黙に動揺したのか、瞬きの回数が多い気がする。 息を飲みそうな空気の中、鬼道がようやく声を発した。 「俺たちは」 「え?」 「俺と春奈は長い間離れて暮らしてきました」 視線は女性を捉えておらず、どこか遠くを見るような面持ちで淡々と語り始める。 「初めて会ったのは、母親の葬儀の済んだ後で――…あの子は、誰も居ない小さな部屋に一人で座っていました」 息を切らし駆けつけた兄、亡骸のそばでぼんやり座り込む春奈を見て目を見開いた姿を今でも覚えていた。 「突然倒れた母親の臨終から葬儀まで立ち会って、たった14で……おそらく、呆然としていたんでしょうね。泣くことも出来ずたった一人で。どんなに辛かったか、心細かったか。思い出すと今でも胸が痛みます」 どこまでも平坦な口調だが、篭もる感情は痛いほど伝わった。 女性は俯いて黙っている。春奈も夏未も秋も言葉がない。 「これまで兄として何もしてやれなかった上、兄妹として暮らした時間も短い。その分、俺は妹に対する負い目がある」 春奈がぎゅっと手を握る。鬼道がすっと表情を改めた。女性がハッと顔色を変える。 「ですから、一緒に暮らすのであれば、俺より妹の方を大切にしてくれる人でなければ困ります」 言い切った兄の立ち姿に、あの日の光景がフラッシュバックする。 「――私は、」 口の中で震える声。 ――えらかったな、春奈。 出会って間もない自分の頭を、優しく撫でてくれた温かい手。 自分はあの時、泣かなかったけれど。 兄だという人の背中を見ながら歩くうち、兄さんの背中を見ながら歩くうち、だんだん心が落ち着いて、 寂しさとか辛さとかが消えていって、月があまりに綺麗で、だから本当は、 ――――泣きたかったのよ、お兄ちゃん。 最後また付け加えられた一言に、目尻から涙が零れた。 「俺は、そういう人を望みます」 |