求む道理、それこそ不条理 5


握られた手は痛いというより熱くて、それが目の前の現実を分かりやすく教えてくれていた。
自分を必死に見つめるこの人は、本当に南沢篤志だろうか。むき出しの感情を、いうなれば激情を、ぶつけられるなんて思うはずもない。
固まってしまった表情筋は相手の不安を煽るのに十分だったようで、瞳が揺れる。ちがう、と思った。そんな風に受け取られたくはなかった。なんとか動かそうとする唇はやっぱりかたくて、息だけが零れる。
辛そうな彼が、引き絞るような声で再度。

「好きだ、お前が好きなんだよ、倉間」

呼吸が止まる、聞き間違いではなかった事実が身体中を巡って震え上がる。一気に頬へ熱が集まって、怯えていた南沢の表情が変わった。驚きに塗り変わる瞳を見つめながら、やっと口にする。

「俺も、好き、です」

そのとき綻んだ笑顔だけは、忘れられないと思った。



「あー……これか」

寝覚め最悪、今更すぎる疑問の答えは夢によって導き出される。
掌で顔を覆い、息を吐いた。

無事に逃げおおせた昨日の帰り道、行きつけのカフェで浜野と合流して事なきを得る。さすがに気まずすぎて謝罪を述べたものの、気にするなの一言で終わった。久々の速水の本気ダッシュは運動部現役を退いた自分には厳しく、それもうあっさりと眠りに落ちる。その結果が再現VTR、よりによって告白の思い出を詳細に出してくれなくてもいいのに。
同時に気付いたことがある、正直知りたくなかったことでもある。自分たちには、明確な言葉が足りなさすぎた。
エスパーでもあるまいし、分かってるだろは通用しない。何かを望む時、相手だって望んでいる。それを当たり前だと思って誤魔化していた部分が確かにあって、しかし解決しようとはしなかった。積もり積もってしんしんと。粉雪も固めれば立派な雪玉だ、積もって凍れば硬いのだ。

ぼーっとしてる間に浜野は出かけ、速水も夕方からバイトの準備。今日は休めという言葉に甘えて予定のないまま寝たり起きたり。さすがに昼もすぎれば着替えたけれど、何もする気がなくソファヘもたれこむ。
ガチャガチャと鍵の音がして、つい15分ほど前に出た速水かと身を起こす。

「どうした、何か忘れもん、…っ」

立ち上がりかけて絶句する。思わずあとずさってソファへ埋もれた。
玄関からすぐのリビング、足を踏み入れてきたのは南沢、本人。

「なん、で」
「なんでだろうな、この展開を俺が聞きたい」

掠れた声に即返答、自棄に聞こえるのは何故だろう。握る拳と鍵の音、当てはめた公式はお節介。
一気に力が抜ける、溜め息も出る、二人が動けば自分は逃げられない。把握したのに合わせて、相手の眉が跳ね上がる。何か気に触ったか、というか触ることしかないか。距離を詰めてきたかと思えば、見下ろす位置で低く言う。

「おまえ俺にここまでみっともねーことさせたんだから、きちんとした説明はあるんだろうな?」

上から目線すぎるキレ方にほぼ消えていた動揺が反抗心に変わる。

「俺も予想外だったんでいますげー驚いてます」

すぐ視線は逸らした。覗き込んで睨みつけるくらいできれば上々だが、そんな気力も勇気もない。
ただ負けてたまるかという、それだけ。

「あ、荷物とか捨てていいんですいません。ってその方が費用かかりますよね、じゃあそれはちゃんとやるんで。俺も勢いだったんでそれは悪かったなってほんと思って」
「なんか抜けてんだろ」

早く回る口は嘘は言っていない、不機嫌な声が鋭く被さる。唇を噛んだ。
意地でも目は合わさない、俯きもしない、横を向いて、ただ本音を。

「聞きたくないから逃げました。これでいいですか」

瞬間、肩へかかる力。掴まれたと感じるより早く向きを変えられて、ぶつかる視線を受ける前に叫んだ。

「好きだけじゃどうにもならないってわかったんだろ?!アンタも!」
「なんでお前はこういう時しか言わないんだよ!」

かち合った瞳は傷付いた色と責める色。
それもこれもどれも自分が引き起こしたことだけれど、だとしてもどうしても、我慢ならないことがある。

「なんで来てんだよ、あんたも終わる気だったんだろ!俺が先に下りたらやめんのかよふざけんなよ、じゃあ聞くからとっとと捨てろよ!」

駄目だ、と思ったあの日、色んな感情が一気に引いた。それは諦めであり絶望であり、取り返しのつかない区切りに思えた。自分を追いかけてくるとすればそれは引き伸ばされた最後通牒で、聞きたくないから逃げたのだ。あの日も昨日も。息を飲む気配に俯いた。どんな顔をしているか見るのも辛い。

「俺は、」

口火を切る音に涙が伝う。この息苦しい数ヶ月間、一滴も流したことのないものが今更になってあふれてあふれて。見苦しいと思うのに止まらなかった。嗚咽を殺して口元を押さえて、惨めさに反吐が出る。
なんだかんだ優しい相手は困って宥めてくるだろうか、そして謝りながら別れを告げるのか。
しゃくり上げて喉を鳴らしたとき、ふわりと抱き締める腕が覆った。

「まだ何も言ってないだろ」

戸惑った声色が、許されたような錯覚さえ起こして。

「や、です、聞きたく、な…っ」

言ってしまえば終わりだった。抑えていた声を上げて泣いた。
泣きじゃくる間、ずっと抱き寄せる腕は優しくて、更に涙が浮かんでくる。
呼吸さえ危ういほど泣く背中を掌が撫ぜ、息を吐きながら相手が呟く。

「あーもー、お前ほんと、めんどくさい」

びくんと肩が跳ねる。髪を梳くように撫でた手に促され、ようやく視線を交わす。
滲んだ視界は指で拭われ幾らかクリアになって、覗き込む瞳が自分を捕らえる。

「お前はさあ、俺のことどうなの」
「どう、って」
「好きなんじゃねえの」

そんなの、と言いかけて飲み込む。まっすぐ見据えるその光、揺らめく不安と不満と渇望は、いつか見た。

「言わなきゃ分からない。俺は、わかんねえよ」

泣きそうだ、彼が。思ったら腕が動いた。抱き返す力を込めた時、安堵するよう息が漏れたのを聞く。
無意識で、唇を寄せた。触れ合う体温にまた涙が零れる。目を閉じて、弱く吸い付いた。

短くもないが深くはないキスは何度も繰り返し、体感時間で三十分を軽く越えたが多分そんなはずはない。
少し冷静さが戻って恥ずかしくはあったけれど、ここでなあなあにするものかと相手の服を掴む。

「あの、」
「ストップ」

心を決めての呼びかけはしかし、割と真顔で止められた。

「言う気があるならここから出ろ」
「へ」

完全に体重を預けていた自分を持ち上げるように立たせ、部屋を見回すと出て行くときに持っていた鞄を
目ざとく示す。

「荷物まとめて帰るぞ」
「ど、どこに」

急かされる流れについていけない。おたおたとするばかりなのをちらりと一瞥。
呆れたかと思えばそうではなく、僅か、ほんの僅か逡巡したのち、ぶっきらぼうに。

「家だけど」

3へ   6へ

戻る