Q.E.D.を綴る指 1
五歳の身体で運ぶには大きめのスーツケース。中身の関係で大して重くもないそれを引きずってドアが開くのをくぐる。 「……お世話になります」 「おう」 いまだ釈然としない花京院とは逆に待ち遠しかったとばかり迎え入れてくれたのは、名実共に後見人となった空条承太郎その人である。 一人で住むには十分広いマンションはなんと3LDK。一室は書斎扱いになっており、中途半端な荷物置き場になっていた部屋が花京院の為にリフォームされた。ベッドも机も運び込まれて、備え付けのクローゼットもぴかぴかだ。ちょっとした単身引越しに近い荷物はダンボールで数箱積まれている。 怒涛の展開でくらくらしながらリビングのソファに腰を下ろすと、承太郎が心配そうに見つめてきた。 「少しね、疲れただけだよ」 薄く笑うと床へ膝を突き、頬へ手を伸ばしてくる。隣に座ったのでは見下ろす形になるからだろう。 「嫌か」 問われた意味が分からず、じっと見つめ返す。どこか不安そうな瞳にすぐ思い至り、頬を触れる手へ掌を重ねる。 「驚きはしたし無茶な奴だとは思ったかな。ほら、そんな顔しない」 再会した瞬間の、真顔に揺らめく激情を思い出す。ただただ自分を離さない、それだけの行動と名を呼ぶ声。 意識外で詰められた間合いが時を止める能力だと知ったのも後の話で。 ジョセフとも電話越しだがたくさんの話をした。 花京院のいない時間は確かに流れて、今に繋がっている。それを寂しく思うのは贅沢だろう、ましてやこんな承太郎に対して。 ――まあいいか。 目を閉じれば瞼へキスが落ち、おそるおそるといったていで唇にも触れる。 視界を開けて微笑めば、安堵の息と共に抱き締められた。 *** 落ち着いて確認した時刻は11時半。 昼食もそうだがそもそも食材がほとんどない、という承太郎の申告により買い物がてら街に出ることになった。 両親以外との外出は初めてに近い。スタンドへの警戒のせいもあって花京院はかなりの箱入りだ。 歩くだけでうきうきするのを抑えきれず、見た目は完全にはしゃぐ子供である。 「久しぶりに映画なんか見たいなあ」 「上映作品チェックしとけ」 軽く決まる次の予定に顔がほころぶ。 つ、と動かした視線がある看板で止まった。 「承太郎」 腕は届かないので癪だがコートの裾を引く。 「クレープか」 二人してメニューを覗き込む。 「チェリーはないぜ」 「確かに好物だがなんでもチェリーだと思わないでくれ」 オーソドックスなイチゴ生クリームとツナサラダを注文した。 緩く巻かれた生地の外側からぱくり、ひと口。 「うん、やっぱりマヨネーズとツナは最高だ」 程よい酸味とレタスの合わせ技も申し分ない。もぐもぐ咀嚼する横で承太郎が大きく齧ってはゆっくり味わう。 大きめのクレープなのに彼が持つと普通どころか小さく見えるから不思議だ。 「君、意外と甘いもの好きだよな」 「てめーこそ、ねだっといてそれかよ」 「ぼくはご飯食べてないんだ」 両親は朝一で海外へ飛び立ち、流れるように承太郎のマンションへ連行された。 朝食そのものがすっぽり抜け落ちてしまったのだ。そしていま現在は空腹である。 「承太郎、ひとくち」 持ち手の紙を剥がそうとするところへ声を掛けると、視線で問われた。 「君が食べていたら欲しくなった」 「……ほらよ」 食べやすく捲られたイチゴクレープと同じく食べかけのツナサラダを交換する。 「はい、どうぞ」 承太郎は無言でレタスを噛み千切った。 果肉の甘酸っぱさを味わいながら笑いが零れる。 人通りが多くなってきたので自然と手を繋いだ。温かい感触は気恥ずかしいが、特権といえばそうかもしれない。 なんたって、今の承太郎は花京院の保護者なのだ。 「この姿でも得するものだな」 思わず口から出た言葉に相手が反応する前に、何かの宣伝と行き当たる。 かっこいいお父さんね、と笑う女性に風船を渡され、手首にくるくる巻きつけた。 「お父さん、だって」 見上げれば些か苦い顔。つい、噴き出した。 「ふふふ」 揺れる風船、今日は斬新な体験ばかりで大変結構。 「つりあう姿になったらまたこうして歩こうね」 繋ぐ手は、どちらともなく力が篭もった。 *** 支部の学習所へ通い始めた花京院の日課は、専ら年下の子どもたちの世話になる。 精神と肉体の擦り合わせがまず第一であるため、外見上は同年代の中に混ざるのは必然だ。 やんちゃ盛り生意気盛りの面々を軽くいなしていく花京院に財団の職員は頭が上がらない。 「助かります、Mr.花京院」 事情を知る者は敬称を忘れず、それがまた特別っぽさを際立たせた。なんだ贔屓されやがって、のような妬みの危惧は最初こそあったが、そこはそれ。子どもは強い者に憧れる。数人の喧嘩をハイエロファントで押さえ込んでからというもの、花京院は男子にも女子にもヒーローだ。 全員スタンド使いだというのも大きい。つい力に頼ったり暴走しそうになるのはやはり不安だからだ。 川原で殴り合っての友情でもないけれど、誰にも分からないと拗ねる必要がここにはなかった。 保育士の様相を呈している花京院へ、別の職員から声が掛かる。振り向こうとすると自分を呼ぶ声。 「ノリアキ、ノリアキ!」 駆け寄る少女は同じ時期に通い始めたのもあってとても懐かれている。 英語を話せる花京院をえらく気に入っているらしく、今日は一緒に折り紙を折った。 「なんだい?」 微笑みかけると、自分の方へ乗り出した少女が頬へ口付ける。 温かい感触、開くドアの音はほぼ同時だった。 「花京院、帰るぞ」 「博士だ!」 体感ちょっと低めな承太郎の声は次々上がる歓声に掻き消される。 一気に囲まれた空条博士は子どもたちに引っ付かれたり足を登られたり大変だ。 時たま訪れては様子を見ていく彼は見た目に反して優しい為、大人気なのである。 「モテモテだね」 相変わらずの光景に笑いを抑えきれず呟くと、一人一人に断りながら子どもたちを剥がしていく。 おや、と思った時には花京院へ辿り着き、ひょいと抱え上げた。 「すまないが、今日は帰るんでな」 「博士ー!ノリアキー!ばいばーい!」 訳も分からず声に答えて手を振りながら、廊下へ出る。 自動ドアの閉まる音、足早に歩き始める承太郎。少しだけ揺れて肩を掴む。 「わ、急いでるのかい?」 顔を覗こうとして唇が当たった。 もちろん事故ではなく、わざとだ。 「君なあ…」 「防犯カメラの位置は把握している」 「なんて無駄な能力の使い方を」 スタープラチナに謝ったほうがいい、本気でそう思いながら何がどうしたのかと首を傾げる。 思い当たるのは先程の。ほんの僅か拗ねて見える瞳に呆れて笑う。 「まったく、仕方のない男だな」 抱え込まれた自分の表情も、きっと彼にしか見えていない。 年端もいかぬ少女にまで嫉妬する大人気なさを宥めるよう、頬を包む。 「ぼくも早く君とゆっくりしたいよ」 誰にも邪魔されない、二人の家へ。 |