夢だっていいじゃない 1


床に座り込み、どれくらいが経っただろう。冷たいかどうかも最早よくわからない。
とにかく疲れたことだけは確かで、いつ帰ろうかと思って、はた、とする。

――どこに、帰るんだろう。

自分は一人になってしまった。母親の葬儀も終わったこの空間で、動けないのはその為だった。
瞬間、勢いよく扉が開く。働かない思考で視線を巡らせ、一人の男性を視界に移す。

「どちらさまですか?」
「春、奈、か?」

息せき切ったその人は、驚愕の表情を浮かべて春奈を見て、そして母へと目線を動かした。

「はあ」

答えながら、この人は誰かと考える。遅れて来た参列者だろうか。随分と遅かったものだ。

「本日はお忙しい中のお運びに加え、故人の生存中はひとかたならぬ御厚情を賜り有難うございました。亡くなった母もさぞ喜んでいる事と存じます」

一日で随分と言い慣れた文章をつらつらと述べる。何の感情もない訳じゃないが、定型文だから仕方がない。
しかし、目の前の人はその言葉を受けて沈黙したのち、おずおずと、言った。

「……その、俺は、……お前の兄だ」
「はい?」
「兄の、鬼道有人だ」

うすぼんやりしていた思考が急にクリアになる。
改めて、初めて見る兄を見つめた。

今を去ること二十数年前、一組の男女が出会い、恋に落ちた。
男性は由緒正しき家柄で、一方女性は庶民の娘。分かりやすい障害があった。周囲の反対を押し切って結婚したものの、姑がねちねちといびりまくり針のむしろ。かばってくれる夫がいればまだしも、先立ってしまえばいよいよ味方はいない。結局、幼い息子を置いて泣く泣く家を出て行った。
しかしそのとき既にお腹の中にはもうひとつの命が宿っていた。
シングルマザーとして娘を生んで育てて14年、働いて働いて旅立ってしまった母親。多くを語られず、向こうの祖母も沈黙を守れば存在なんて知るわけない。最期に「実は孫がもう一人居るはず」だなんて、それはもうびっくりしたことだろう。やっと所在を探し当てたと思ったら、あとのまつり。

月の浮かぶ夜空を見上げながら、兄だという人の背中に続いた。

それから、4年。当初はぎくしゃくすることもあったけれど、関係は概ね良好。
中学を卒業して高校にも上がらせてもらって、いよいよ受験という時期まできた。
第一志望に無理はなく、あとは本番まで気を抜かないばかり。
目下の問題は、ただひとつ。

「春奈、突然ですまないが週末の夜は空いているか?」
「え、うん。今のところ予定はないけど」
「ならば付き合って欲しい。食事に行くんだ」

ほらきた。頭を抱えたい気持ちを抑えながら、何とか口を動かした。

「……兄さん、あのね」
「どうした」

ナチュラルすぎる疑問の顔に、気が殺がれて首を振る。
言っても無駄だということはさすがに理解して、否、せざるを得なかった。

そして訪れた気の重い週末。
洒落た高級レストラン、夜景も見える素敵な席。テーブルで向かい合うのは一組のカップル…………に加えて何故か自分。着飾った綺麗なお姉さんの視線は見事に春奈に注がれている。
彼女と会うのに妹を連れて行って何の得があるのかと。ほら、見なさい、と胸で嘆息。今度の人も呆れた顔だ。

――彼女さん、本当にごめんなさい。でもいつものことなの、これは。

お姉さんたちは複雑な表情で、その次に敵意を持って春奈を見るけれど、そんなことにはお構いなく妹同伴でデートにいく兄上様。
食事が終わり、出てきたのが次の一言。

「春奈、デザートはどうする」

――ばか!!

声をかけるときは相手の女性が先であるべきだ。まったくもって信じられない。
身内の人間を優先してどうするのか。今度の人もこれまでだろう。視線が怒りから冷めたものに変わっていってるのを確認する。
罪悪感しか得るもののない食事会は至極気まずく終わった。


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