エンドレス・シアター 2 三国が立ち去ってから数分ほどだろうか。 腕を掴んだままなんとか立ち上がった南沢は、ぶっきらぼうに言った。 「まともに歩けねんだよ、肩貸せ」 「俺じゃなくても……」 この場で自分以外にいる訳がなかった。 それでも状況についていけるはずはなく、振り向きもしない倉間に南沢の表情は窺い知れない。 苛立った雰囲気を後ろから感じた。 「後悔しねぇの?」 面倒そうな声が胸へ突き刺さる。 一番聞きたくない、語調だった。 つぅっ、と生温い感触が頬を伝う。 「ちょ、おま」 慌てた声の揺れは情けなさを加速されるには十分で、そのまま止め処なく涙が溢れ出した。 「っ…」 声も出さず泣き始めた自分に息を飲む音がして、幻滅されたと今度こそ思う。 大きな溜息、掴んだ腕が後ろに引かれた。 「一回座んぞ、どうせタクシー呼ぶんだし変わらねーだろ」 促されるままベンチに座り込み、流れ続ける涙も拭わずに口元を押さえる。嗚咽が小さく響いた。 舌打ちの音、肩がびくりと震える。 「泣きたいのは俺だ」 はらはらと落ち続ける雫は一向に止む気配がなく、服の袖が染みていった。 時計の針は、一時を回る。とっくに電車も止まり、人の気配もほとんどない。夜風がごくたまに髪を揺らす。 埒が明かないと判断した南沢が立つように促す。 「こっからだともうホテルのが近いわ、行くぞ」 「え」 「意識は無事でも身体ぐだぐだなんだよ、一人で帰らせんの?お前何しに来たわけ」 言う通り、足取りが若干おぼつかない相手と連れ立って、駅近くのビジネスホテルのエントランスへ。 酔った客の対応も慣れているのだろう、南沢の意識はハッキリとしていたので特に断られることもなく部屋を確保できた。 前髪で隠れ気味とはいえ腫れた顔を隠すよう俯いていたから、調子が悪いのは自分だと思われたかもしれない。 エレベーターに乗り、気まずい空間。階を確かめ、降りる相手に続いてはた、と気付く。 キーが明らかにひとつしかなかった。 開いた扉の向こうはツインルーム、ベッドが二つあることに安心していいのかよく分からない。 「シングル埋まってるっつわれたらこうなるだろ。ダブルとかどうすんだ」 ごもっともな意見に頭が下がる。さすがに男二人でダブルを取るのは色んな意味で辛すぎた。 しかも今の自分と、相手の状態でなんて。 止めたはずの涙がまた溢れそうになって思わず息を止める。 ちらりと寄越される視線にびくつくと、乱暴に髪を掻き回された。 「いま撫でるくらいしかできねーんだよ、もう寝ろ。俺が寝る」 限界、と言いたげな声が落ち、腕が引かれて片方のベッドへ導かれる。 座り込むように腰を下ろすと、ひらひら片手を振った南沢が残りのベッドに身体を沈めた。 少しして聞こえてくる、寝息。相当ギリギリだったのだと理解する。 泣きすぎて頭が痛い。上着をおざなりに脱ぎ捨て、倉間も布団へと身を任せた。 カーテンから差し込む光に寝返りを打つ。 微かな違和感を覚えて瞼を開いた。見知らぬ天井。 急速に思考が昨日をリフレインする。混乱する、意識。 そっと身体を起こし、隣のベッドを見た。 安らかに寝息を立てる相手は熟睡のようだ。この少しの距離が、明確な現実を知らせる。 何がなんだか、よく分からなかった。 無理だ、と言われた。何かは聞かなかった、聞こうともしなかった。 ただ波風を立てぬように、相手に煩わしさをもたらさないことだけを考えた。 振られた、なんて言い方は揶揄であり、つまりは自分の至らなさだ。 あんなに欲しくて、手に入れて、手放す時のなんと簡単なことか。 諦めは、早いほうがいい。 手近なメモを見つけ、走り書きで一言添える。 上着を羽織り、瞼を擦って涙の後を思い出す。 顔を洗ってから帰ろう、まだ少し眠さの残る頭でふらふらと洗面所に向かった。 水で目が覚め、タオルで拭いて鏡を見る。微妙に怪しいが見れないこともない。 宿泊代は財布から適当に紙幣を抜いて置いていこう、そう思って取っ手を掴む。 外側に開くと思ったより軽い、というか引っ張られる勢いで前につんのめった。 「おはよう?倉間」 ドアを引いて待っていたのは、目を細めて笑う南沢。 つい中へ戻ろうとするが手首を取られ、握る手を剥がされる。 引き寄せられてたたらを踏むと、何かを突きつけられた。 「何だこれは」 ぐしゃりと握り締められた紙片は先程自分が書き残したメモに違いない。 震える拳、睨みつける瞳は鋭く光り、詰問は罵倒へと装飾される。 「なあ、お前バカか?出てくならすぐ行くべきだろ、こんなもん残すくらいならな!」 「アンタみたく用意周到にできないんで」 口元が歪む、嘲るに似た笑いが零れた。 相手の表情が怒りに染まる。 「こい!」 引きずられる先は、自分が寝ていたシングルベッド。 放り出され、押さえつける力は本気に思えた。 今が何時かは分からないが、アルコールの分解が随分と優秀なようで何よりだ。 つまらなさげに見上げる倉間に南沢は苛立ちを隠さない。 「連れて帰りに来たんじゃねえの?」 「起きたらまた出てくなら一緒ですし、つか、意味がないな、って」 「はあ?」 抑揚のない文章に問い詰める語尾。諦めたような息を吐く。 「ワンギリなんてていのいい理由じゃないすか、俺かけるとか無理ですもん。 アンタの忘れ物とかあったけどいらないから置いてったわけでその時点でそれは忘れ物じゃない。 不用品でゴミなんです。ゴミをどうしますか?とか聞かれても困るに決まってる」 「おい」 「ちっさい独占欲で迎えにいきますとかバカか、アンタは俺じゃなくていいんだから」 「おいふざけんなよ」 早口でぶつける言葉は本音、流暢に並べ立てる内容は隠喩も暗喩もなくストレート。 低いテンションの倉間と引き換えに、南沢の怒りが膨らんでゆく。 振り切るように叫んだ。 「俺が好きでもアンタがいらないんなら!」 「っ!」 肩を強く押し付けられる、真上から見下ろす表情は痛みを堪えた決死の懇願。 「俺に寄越せっつってんだよ!お前を!」 引き絞るような叫びだった。全身を震え上がらせ、痺れをもたらすほどの、渇望。 表情を無くした倉間は、ただただ相手を見つめ、呆けたように唇を開く。 「最初から、」 目が離せない、離せる訳が、ない。 「最初から、そうです」 肩を押さえる力が、弱くなる。 「アンタのだよ、俺は」 瞳が揺らめく。言い切るが早いか唇を塞がれた。 乱暴な舌は口内を掻き回し、粘膜を擦りながら相手の掌が服の上から胸元を撫でる。 身を捩る前に上着は床に落ち、シャツのボタンが素早く外されていく。 「みなみさわさ、っ、い、」 「嫌とか言うな」 「ちが、い、いまから、ですか」 「この流れで聞くか」 慌てた呼びかけにひと睨み、拒否ではないと首を振るとばっさり切り捨てられる。 太ももをなぞる掌がするりと動く。本気の仕草に身体が反応してしまう。 「で、でも、チェックアウト…ッ」 「二泊にしてある」 「なっ、」 「お前、時計見てねえの?もう11時とっくに過ぎてる。起こすなの札もかけたからな、誰も来ない」 現実的な意見は根回しによって消去された。 驚きすぎて声も出ない。どうして、何故、この男は。 目を見開くばかりの倉間に対し、愉しげに口角を上げる。 「昨日撫でるしかできないっつったろ」 止め具の、外される音。 「酒入りすぎたら起たねーんだよ」 「!!」 全ての意味が逆となって今降り注ぐ。 ファスナーを下ろす指が遊ぶように股を撫で、ひくんと震える。 「もっと俺のことで泣けばいい、ああ違うな、泣くのはこういう時だけでいい」 酔ったような瞳は自分を嬉しげに覗き込む。 「思い知らせてやるから」 誇らしげなその声音に、観念して力を抜いた。 「気をつけて帰ってください。お元気で」 「朗読すんのやめてもらえますか」 割と狭いベッドの上、皺だらけになったメモを広げて南沢が呟く。 そんなに腹が立つなら捨てればいいのに読み返すのは文句のためか。 「お元気でとか、なんだこれマジで。挨拶か」 「挨拶の文面ですしね…」 「こんなさらっと、ありえねえだろ」 「あの、すいません、出てった人に言われたくないです凄く」 クレームの勢いに疲れたトーンで返す。 起き抜けから騒ぎすぎた反動と先程の行為であらぶる気力もない。 ストッパーも外れた脱力感は火へ油を注ぎ込む。 「昨日の流れで帰るか?!ぬか喜びか俺は!」 「え、喜ぶ場所あったんですか」 メモごとシーツを叩く掌。叫ばれた内容が右から左に流れてまた戻って、鈍い思考に引っかかる。 真顔で問うた。相手が肘を滑らせて布団へ沈む。 沈黙ののち、シーツと腕の隙間からくぐもった声が聞こえてくる。 「俺、お前といるとガチで心折れる……いや、折れた」 ――すでに。 追加された一言はなかなかに抉ってくる。 思わず黙り込み、気まずい空気となりかけて、そのままの声音で主張が続いた。 「罰としてお前には接触を義務付ける」 「は」 「毎日、一回以上、自分から俺に触りに来い。ちゃんとしたスキンシップな、肩叩くだけとかなし」 「…は?」 「言葉が出ないなら態度で示せっつってんだよ」 聞き返すしかしない倉間に不機嫌そうに顔を上げ、拗ねたように言いつのる。 次いで真面目な声が、低く。 「一週間、頭おかしくなるかと思った。お前がいなくて」 再度、目を合わせたその表情は、切羽詰ったもの。 痛みと切なさと後悔と罪悪感と、そして何よりも大きい感情があふれそうになる。 口を開くと泣きそうで、それでも伝えたくて顔を寄せた。 「俺、アンタがいないと」 近づいた唇に息が飲まれる。そっと身体が抱きこまれ、軽いキスのあと擦りついた。 すん、と鼻をすする倉間の頭を撫でながら、南沢が安堵の息を吐く。 胸のつかえが取れて眠気に誘われる。瞼を閉じると相手の腕が心なしか強く抱く。 「言っとくけど、お前勝手に帰るとかすんなよマジで」 「リアル動けねーよ」 駄目押しの確認は見事に余韻を吹き飛ばした。 |