エンドレス・シアター 1 出て行った。簡潔に表せば表すほど陳腐な印象にしかならないが、実際くだらない、馬鹿な状況だと思う。 実家に帰ります、だのよく見る流れでもネタでもない。何故なら相手の行き先は分からない。 周到に綿密に用意されていたその行動は薄々感付いていた自分の予想を越えて叩き付けられた。 「来月分、置いてくから。悪いけど誰か探すなりして」 二人で折半を想定した家賃は一人で負担するにはなかなか重い。 1ヶ月の猶予をくれるとは心遣い痛み入りすぎて涙が出そうだ。 泣いてなどいないけれど。 そう、残された分際で図太いのかはたまたその感情に蓋でもしたのか一切涙も流れなかった。 ただ受け入れて、頷いて、相手の思うように。 片鱗が見え始めた時点で、いかにあっさり終わらせるかシミュレートした。 その日が来たのか、とぼんやり思ったのは頭の片隅にいつもあった予想なのだろう。 子供の延長は、続かない。 一週間ほど経った夜。絶望するでもなく流れていく日常に現実を受け入れた気分を味わう。 机に置いた携帯が光る。ワンコール、鳴った音は僅か一秒ほど。 だが表示を見てしまった、着歴を確かめる、間違うはずのない相手。奥歯を噛み締める。 「、けんな」 そのまま履歴から掛け直す、コールが一回、二回、三回、四回、繋がる、音。 「ワンギリってどういう了見だコラァ!」 「く、倉間か…?」 「え、あ、はい?どちら様ですか?」 怒りのままぶつけるはずだった感情は空振りしてしまった。むしろ暴投に近い。 驚きながらも自分を呼んだということは知り合いだろうか、思わず普通に問い掛ける。 「三国だ」 「三国さん?!」 予想外の人物に電話口で声を上げる。 そういえば夜も遅いと口元を一瞬押さえ、話を聞くことにした。 「南沢と飲んでたんだが潰れてしまってな、落ちる寸前に携帯触ってたからそれでかかったんじゃないか?」 「潰れ、てるんすか」 「ああ」 着信の説明より何より、その事実が頭を打ち付けた。 無駄に用心深い南沢が酒量を過ごすなんてことはまず、ありえない。 セーブする限界を弁えている男のはずだ。そんな気の抜き方を、したのだろうか。 じわじわと湧き上がって広がっていくのは、吐きたいほど鬱陶しい我侭だ。 「それでどうしたもんかと…いま住んでる場所も聞いてないしな、連れて帰ろうかと」 「行きます」 「ん?」 「今から行きます、どこですか?」 口が勝手に動く。遮るような宣言に聞き返す声、それさえも押しのけるみたいに、問いを重ねる。 喋りながら財布と鍵を掴み、通話を切ると飛び出した。 「お久しぶり、です」 「悪いな、こんな時間に」 「いえ」 頭を下げてから今夜の被害者を見る。記憶に年齢を程よく上乗せした姿、優しげに笑う顔が懐かしい。 指定されたのは数駅向こうの小さな公園。 思ったより近い距離に複雑な思いを抱えつつ、ベンチに座らされた目標を確認する。 「…これですか」 「完全に潰れてな」 見守る視線は呆れというより心配が勝り、変わらない先輩だと思うと同時、くすぶる何か。 項垂れるような姿勢の泥酔者は、寝ているのか判別しがたい。 そろり、近づいておもむろに声を掛ける。眠っていて欲しいと、頭の隅で思う。 「……南沢さん、」 「くらま」 ぱち。ごく小さな呼び声であるのに相手の目が開いた。 思わず硬直する身体を伸びてきた腕が抱き締める。逃げ出したい衝動に駆られた。 「帰る」 「どこに」 「俺の家」 「アンタの家知りませんよ」 「言ってない、言わない」 「はいはいそーですね」 唐突に落ちる発言は脈絡がないかにみえて、真実を突く。 夢とでも思っているのか、それでも頑なな独り言めいた、台詞。 鼻で笑うように相槌を打つと、僅かに眉が寄せられる。 「嫌なわけ?」 「アンタが嫌なんでしょ」 「ばっか、お前、俺がさあ、俺が…」 「マジの酔っぱらいかよウゼー。三国さんいるんですよ」 まるで子供の駄々かの如く、絡みつきながら顔を覗き込んでくる。酒臭い。 言葉に繋がりは見えない、俺が俺がと連呼したいのはむしろ自分のほうだった。 心からの鬱陶しさを口にして、放置気味の先輩の名前を出す。 間髪入れずに零れ落ちたのは、自分にしか聞こえないほどの小さな声。 「倉間がいい」 しっかりと耳に届いた文字の並びに背筋が震え上がる錯覚。 そのまましがみ付いた酔っ払いを一瞥し、冷ややかに斜め後ろを振り返る。 「すみません三国さん、水ぶっかけてもいいですかね」 「さすがにやめてやれ」 至極冷静なツッコミが入ったので引き剥がしてベンチに寝かすに留めておいた。 溜息を吐いて少しの間、一度視線を遠くへ向けて、再度、三国へ向き直る。 「…連れて帰ります」 「どこにだ?」 「俺んち、ですけど」 「倉間、少し真面目な話をしよう」 それまであまり言葉を挟まなかった先輩が、ゆっくりとしたトーンで切り出した。 知らず、拳を握る。 「俺はこのまま見送ることもできるしお節介承知で口を出すことも出来る。何故なら話を聞いた時点で見て見ぬふりは難しいからな。」 「どこまで、聞きました」 「振られたってことと、後半自分が重いんだ、という自嘲ばかりだったな。相手や詳しい事情は聞いていない」 「そうです、か」 頭が上手く回らない。振られたとは何事か、むしろ置いていかれたのは自分のほうだ。 しかしそんな話をわざわざ説明も出来るはずがない。第一、重いだとか初耳すぎて他人事のように聞こえてくる。 切れ切れに答える様子を見かね、三国はさらに直球を投げた。 「お前が連れて帰って解決するのか?」 そんなことは自分が聞きたい。 「しなくても、こんな状態を他に任すのは嫌なんで」 「どうするんだ、そのあと」 矢継ぎ早な質問は容赦がなかった、皮肉めいた口が回る。 「また出ていくならそれでいいです。忘れもんもありましたしね、手間省けて」 「質問を変えるぞ、どうして連れて帰るんだ?」 「俺がこの人を好きだからですよ!」 叫んでからハッとする。やられた、完全に。 安堵した表情の三国が恨めしい。 「……言えるんじゃないか」 「今だけですね、意味ないんで」 解き放った想いの行き先に意味などなく、倉間の肩が落ちる。 ところが、明るさの乗った声が空気をぶち壊した。 「そんなことないさ、なあ南沢」 「?!」 「聞いてるんだろう?」 自分の後ろへ向けられる視線、おそるおそる、肩越しに振り返る。 「お前ら話なげーよ、そして煩い。頭いてぇ…」 ベンチへ横たわったままの南沢が半身を起こし、こめかみを押さえながら不機嫌に言う。 頭の中で警報機が鳴り響いた。目が合う前に三国へと視線を戻す。 「お、俺帰りま…」 がし。腕をつかまれる感触、血の気が引いていくのが分かる。 どうしてもっとベンチから離れなかったのか、それは近い場所に立ちたがった自分の愚かさだ。 青ざめた倉間に、三国が朗らかに笑う。 「倉間、忘れものだ」 先輩とは、何年経っても侮ってはいけない存在であると知る。 |