チェックポイント通過待ち 1


準備は万端、あとは動くのみ。それが一番難しいからこそ、こうやって携帯を凝視する羽目になっている。
らしくない、本当にらしくないが、そもそも自分らしさとは何か。そんな現実逃避でしかない思考はループになってだいぶ経つ。夕方を過ぎれば更に掛け辛くなる。呼び出しては取り消したメモリを何度目か分からない正直で表示させ、勢いのままに発信を押した。
五コール鳴らして出ないなら、それで。
随分と後ろ向きな保険をかけた発信は僅か三コールで繋がった。聞こえてくる機械越しの相手の声。なんでもない風を装って挨拶し、あくまで淡々と口にする。

「いま、お前家にいる?」


***


「えー、と、」

ドアを開けて一旦停止、自分の姿というか荷物を見て倉間が目を瞬かせる。
軽い旅行程度のバッグの中には数日分の着替えとノートパソコンと資料諸々。取り急ぎなければ困るものだけを詰めて来た。

「近くの水道管破裂してな、古かったらしく。アパート、水が使えねーの」

実に端的な事情説明をすぐさま飲み込んでみせた後輩は、責めるでも呆れるでもなく、ぽつりと言う。

「それはいいんすけど、なんで俺チョイス」
「ここ、大学近いから」
「ですよね。もう少し遠慮しろよ」

真顔の突っ込みは正論でしかなかったが、それでも家に上げてしまうのがお節介、むしろ甘いところだ。否、誰にもとまではいかないだろう。少なくとも自分はその枠組みにカテゴライズされるくらいの関係性を築いている。
中学から数えて片手を過ぎた。先輩後輩制度はありがたくも虚しい感情を稀に呼び起こす。気安いやり取り、信頼から生まれる軽口、全てが青春の残照を色濃く残してくれる。
承諾されるとは思わなかった、何いってんすか、だの断られるイメージが浮かんでいた。それならそれで宛てがない訳でもない、しかし見込みの分からぬ選択肢へ向かいたい衝動に負けてしまった。
自分はこの後輩に、恋を、している。

案内されて居間へと抜ける。実は訪れるのは初めてだ。
倉間は気に入った相手には懐が深い、昔からつるむ浜野や速水とは今も密にやり取りをすると聞いた。サークルの仲間とも打ち解け、終電を逃した幾人かを保護したことも何度かあったらしい。大学に近いアパートは溜まり場とまではいかないものの、若干便利に思われていた。
自分の住む場所はそこから更に二十分ほど。遠すぎもしないが近いとも言えない、中途半端な距離。
中学、高校と互いの家を訪れたこともある。付き合いも続けば親にもほぼ顔パスだ。常に適度な関係、適度なじゃれ合い。入り込みそうで入り込まない、それでも近くの位置を獲得する。ふとした時に、自分を探す倉間の視線。当たり前だと刷り込まれたようなその行動。充分だった。充分だと、思った。
三年生になった今、時間は有限だと思い知る。大学が終わって社会に出て、そうしたらいつか繋がりも薄くなっていく。耐えられる程度の気持ちだろうか、だとしたら、何故、倉間に電話を掛けてしまったのか。
あっさり受け入れてくれた倉間は夏場だからなんとかなるだろうと冬用敷布団とタオルケットを提供。寝床を確保したあとは、家事の分担やルール等、共同生活における話し合いも行われた。問題もなく始まった同居は、本当に普通に過ぎていく。
自分のアパートは復旧中は家賃免除となっている。着替えや何かしら足りないものをちょくちょく取りに帰るうち、私物がどうしても増えざるを得ない。

「…これ、帰る時、宅配っすね」
「確かに」

生活スペースを侵食されるのを疎んじるでもなく、ただの感想。顔を見合わせて笑った。
期限は一ヶ月、何が変わるとも思っていない。
大体そんな行動力があったなら、五年以上もいい先輩で甘んじているものか。踏み出す勇気だとか、簡単な問題であれば良かった。この関係を失うリスクを負ってまで、想いを告げようと考えるのは無理な話だ。


最初の一週間、たびたび帰る道を間違えた。
途中で気付いて方向を変え、ポケットにある鍵の感触にむず痒い気分になる。心なしか早足で進み、ドアの前で立ち止まり、軽く息を吐く。鍵を差込み、回す手ごたえ。玄関を通って居間へ向かうと、既に帰っていた倉間が顔を上げる。

「おかえりなさい」
「…ただいま」

誰かが迎えてくれる、温かさ。それが、相手である意味。胸の奥が燻るような、感覚。
自分の日常に、倉間がいる。とてつもなく、嬉しかった。
二週目、そろそろ迷いなく帰路につき、メールを確認してスーパーに寄る。買い物は夕方に空いてる方の義務になった。何故ならセール時間があるからだ。いかに安く買うかは一人でも気合を入れるべき部分だが、入り方が違うのは推して知るべし。簡単な料理も楽しくなって、一人でいるより自炊した。
おはよう、おやすみ、繰り返される挨拶が心に染みる。これが日常になってしまって、自分は一ヵ月後に基の生活に戻れるのか甚だ疑問だ。
居候しているからか、誰かが訪れることもなかった。さすがにそこまで気を使うなと言ってみたけれど、そもそも頻繁に来ないと返される。

「何も絶対に俺んちじゃなきゃ駄弁れないとかもねーし」

近いから便利という扱いをそこはかとなく遠ざけたいのを感じた。


三週目にもなれば、終わりが見えてくることに寂しさを覚える。それは倉間も同じなのか、日付を確認すると曖昧に笑う。
自分の期待が見せる幻覚でなければいい、なんて随分と低い満足度だ。
何の勢いか知らないが宅飲みで盛り上がり、この数週間の生活で飲んだことがない訳でもないのによく喋った。
ふと、魔が差して口にする。

「お前さー、彼女とかいないのか」
ぱちくり、分かりやすく瞬いた倉間は何を今更とでも言いたげに肘をテーブルに突く。

「この長い付き合いで浮いた話が出ないんだから察してください」
「はは、お前ダチとつるみすぎなんだよ、隙ねーの」
「隙ぃ?つか南沢さんこそ聞いたことない」

いないくらい、知っていた。中学の頃から、ずっと、倉間の周りを牽制してきたのは他ならぬ自分だ。イベントを利用する女子もいたし、本命チョコだの手紙だの、なかったわけじゃない。別に何もしていない、受け取った倉間は実際断っていたし、心惹かれる様子もなかった。
ただ、アフターケアで自分へ流れるよう少し小細工してみただけの話だ。意味ありげに笑うとか、少し声を掛けるとか、なんでもいい。
有難いことにモテる要素はあったから、芽を摘むのはハッキリ言って簡単だった。気を惹くだけ惹いて受け流して、涼しい顔で倉間の傍へ戻る。その繰り返し。
倉間が誰かを選んだなら、そこで終わるだけの、馬鹿馬鹿しい行動。
隙がないのも本当だ。友達一番、まるで絵に描いたような青春を満喫する相手に恋愛の入り込む余裕は、ゼロに近い。学年の違う自分は親友たちに劣る部分が確かにあって、それが無性に悔しかった。

「俺はいいの、引きずってるから」
「え、失恋ですか」
「失恋できてたら、な」

自嘲を含めると疑問の浮かぶ顔。思わず笑った。
純粋に、まっすぐに向けられる憧れの透明さ。
自分しか受けられない優越感は決して手に入らない不満と隣り合わせ。追いかけてくる頭を撫でて、抱き締められない腕を抑える。
過去を振り返る間に質問が飛ぶ。

「失恋じゃなくて引きずるんすか」
「引っ張るなお前」
「や、すいません」

はた、と気付たように謝る相手に萎縮を感じ、そうじゃないと笑みを作る。

「ほら、なに、機会とかなくて。まあ俺が作れないのもあるにせよ、仲良くしてたら言えないだろ」
「いま、も?」
「今も」
「そういう人、いたんですね」
「え?」

今度は自分が聞き返す。独白めいた呟きは違和感をもたらした。一瞬酔いが覚めた自分に向かって慌てた様子で倉間が言葉を零す。

「えっと、なんか、俺付き合い長いのに全然気付かなかったっていうか」

そりゃそうだろ、思わず浮かぶ台詞をぐっと堪える。

「そっか、南沢さんにも好きな人いたんすね…」
「も、って言い方」
「他意はないです」

しみじみと、噛み締めるように言うのを茶化す声音で混ぜっ返した。相手も笑った。ネタにしなければ、到底流せる発言ではない。
翌朝、いつもの調子の倉間に不審な点はなく、引っかかる何かを感じながら考えるのをやめた。
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