手繰り寄せて、


ふわふわとした意識の中で頭に触れる手は優しかった。

「食べたら眠くなるとかお子様すぎるでしょ」

まあ去年まで小学生だしねぇ、と笑う声は普段より優しい。そんな及川など見たことがなかったから表情が気になったけれど、閉じた瞼は重くて今にも眠りへ飲み込まれそうだ。頭を撫でる動きが止まり、触れたままで相手が密やかに囁いた。

「お前がこの先、苦しくなるのは俺にだけ」

なんてね。付け加えられた音は笑っていたけど寂しそうで、名前を呼ぼうという気持ちとは裏腹に影山の意識は落ちた。

***

変な夢見を振り払うように日課のロードワークで川縁を走る。
もっとも、夢ではなく記憶の再現であり、今の今まで忘れていたことでもあった。
中学一年、及川が引退する間際のひととき。休日練習で隣に座って昼食を食べて寝て、起こされた。その時にはやっぱりいつもの及川で、言葉の理由を聞く機会もないまま卒業を迎えてしまった。

「げっ」

些かぼんやりしながら走っていると、向こう側から現れた相手が嫌そうな声を上げる。それが及川だと判別するのに遅れたのは考え事をしていたからなのだが、内容が内容だけにタイミングが恐ろしい。
中学が同じで高校も通おうと思えば叶った学区であれば、遭遇するのはおかしなことでもない。表情をしかめながらも挨拶と嫌味をセットでかましてくるこの先輩は、出会えば意外とすぐには立ち去らなかった。
ネットを挟み、正々堂々と対峙した決戦の時。もぎ取った勝利は自分だけのものではもちろんなくて、終わった瞬間の言葉をはっきりと胸に刻んだ。

――これで一勝一敗だ、チョーシ乗んじゃねーぞ。

回想と同時に込み上げる何かを感じ、胸元を押さえた。

「気持ち悪ぃ」
「はあ?!このイケメン前にして気持ち悪いとか喧嘩売ってんの」
「じゃなくて、苦しい?」
「なんで疑問形」

自分でもよく分からないもやもやをもて余しながら答えると、短気なようで続きを促す相手が言葉を待った。まだ眠気が抜けていないのか、本当に調子が悪いのか、伝わるか分からないことを口にしていた。

「アンタがかけたんですよ、魔法」

むしろ呪いじゃないのかと影山は思う。まるでこの瞬間に発動するのを待っていたかのような。

「なっ……」

鼻で笑うとばかり思っていた相手はその場で絶句し、ふらり、一歩足を引いて気まずそうに零した。

「お前、起きてたの」
「思い出したの最近です」
「忘れてんじゃん!」

噛み付く勢いで責める声を上げ、はあ、と疲れた息を吐き出した。
ばつが悪そうに口を開く。

「嫌なことって残るもんなの。嬉しいより、よっぽど」

独り言めいた呟きは心の奥にある傷をつつく。忘れられない、忘れてはいけない試合は後悔としてずっと残るだろう。それに囚われることはなくとも。

「お前が俺で苦しめばいいなあって思って」

感傷に浸る影山の頭を殴るような言葉が届く。及川は眉を寄せながらも笑っていて、そういえばこんな顔ばかり向けられていた気がする。

「そんなに嫌いですか」
「嫌いだよ」

俺のこと、と聞く前に声が被った。
ひゅっと喉が鳴る。

「天才は嫌い、馬鹿も嫌い、兼ね備えてるお前はほんと最悪。なのに追いかけてくるし、たった一年間しか被らない俺を一番にしちゃったでしょ。たまんないよ。ちょうどいい壁かよ、輝かしい未来への踏み台ですか。あーやだやだ、純粋に尊敬してます、みたいな顔で寄ってくるんじゃないっつの腹立つ」

一気に捲し立てる及川は一旦止まり、長文をどうにか噛み砕こうとする影山にまた笑った。

「お前はどうせ俺を見ないんだから、」
「見てます」

今度は自分が遮ったことに驚いて目を見開く相手。
乾いた口をなんとか動かして告げた。

「いま、見てます」
「そうじゃねーよクソガキ」

吐き捨てる音、余計にひそめられた眉。
及川のほうが苦しそうに見えるのは何故だろうか。

「忘れてたんならそのまま消しててよ……」

ついに途方にくれたように落ちた声で頭の中の何かが弾けた。

「嫌です」

両手をぐっと握り締め、息を吸いこんだ。まとまってはいないがここで黙ってはいけないことだけは感じていた。

「よくわかんねーけど、俺が苦しいのも及川さんがそんな顔すんのもヤです」

そもそも引っ掛かっていた部分をようやく引っ張り出す。

「つーか呪いとかかけなくても、俺アンタのこと忘れねーしそんなのありえねーし、ずっと目標なんで」
「そんなのわかんないよ、ていうか呪いにすんな、だったらもっと傷付け」
「アンタ言ってることめちゃくちゃですよ」

拗ねた言い様にまた被せる。なんなの、と睨む視線は既に怖くない。

「及川さんは俺には特別です。一勝一敗だって、アンタが言った。この先もあるからじゃないんですか」

及川が唇を引き結ぶ。続いて絞り出すように呻いた。

「お前、なっまいき……」

歪んだ口許は心なしか笑んでいて、睨み据える瞳がひと呼吸のうちに近くなる。距離を詰められたのだと理解したのは胸ぐらを掴まれたあたりだった。

「そっちがほじくり返したんだからな、覚悟しろよ」

何を、と聞く前に唇が重なって、驚いた影山は及川ごと後ろにこけた。

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