緊急事態すなわち日常 かつてない緊張感が彼を襲っていた。 呼吸を整え感覚を研ぎ澄まし、ひたすらに敵の襲来を警戒する。 神出鬼没を絵に描いたようなあの男は本当にどこから現れるかわからないのだ。 カーテンを開けたら窓の外にいたり天井に張り付いていたりは日常茶飯事。 その無駄な行動力を他に生かしてはもらえないだろうか、と何度思ったかしれない。 ふいに感じる人の気配、これは罠かそれとも――…裏の裏をかいてまともに玄関から入ってくる事も考えられる。 覚悟を決め、勢いよくドアを開け放った。 「り、亮…?どうかしたの?」 驚き見開く瞳に訝しむ声、開けた先にいたのは元凶の妹だった。 「明日香、か…」 張り詰めていた気が緩み、盛大に溜息を吐いて壁に手をつく亮。慌てて駆け寄り声をかけようとし、明日香の声が沈む。 「どうかし……たというか兄さんがしたのね」 言葉の後半は嘆きと疲れのコラボレーション、デュエルアカデミアのカイザーをここまで困らせるものなど、ひとつしか思い当たらなかった。 理解が早くて助かる、そう目線だけで伝える亮の意を汲み取って明日香は情けなく首を振る。 「ごめんなさい、最近は結構大人しくしてると思っていたのだけど…私に関しての話だったみたいね」 謝罪の言葉を手で制し、お前が気にすることはないと言い掛けて、亮の足元がふらついた。 すぐさま支え、肩を貸しながら明日香は食堂へと誘導する。 「とにかく休みましょう、疲れて対応できなくなったらそれこそ兄さんの暴走が始まるわ」 静かに頷く亮は、もはや返事をする気力もなかった。 時間を外したおかげで人気の少ない食堂の片隅、何とか落ち着いた様子の亮に明日香は事のあらましを尋ねる。 自称・恋の魔術師を名乗って憚らない天上院吹雪こと歩く迷惑謙彼女の実兄は、己だけでなく友人にまで紳士の振る舞いを要求した。 要は女の子に優しくしろだの人の好意を無碍にするものじゃないというようなありがた迷惑のオンパレードだ。 一理あるといえばそうなのだが、何せ彼は学園が誇るカイザー亮、慕う女子は数知れず。下手に愛想を振り撒こうものなら今以上の惨状が用意に想像できた。 よってかわしかわし相手をしてきたものの、最近はしつこい、妙にしつこい。しかもデュエルを絡めてくるものだから、相手にしないのはデュエリストのプライドが許さなかった。 そんなこんなで連日追い返し続けた結果、とりあえずは止まった。だがしかし、そこからぱたりと何もしてこないのだ。 今までなら忘れた頃にあっさり懲りずに仕掛けてくるものが始まらない。これは罠か、油断させる罠なのかと連続コンボに疑心暗鬼になりかけていた亮は大いに悩む羽目になった。 それより何より、ここ数日吹雪の姿を見ていないのが一番恐ろしい。次に現れた時に一体何をして貸すのかと気が気ではない。 警戒に警戒を重ねて日々を過ごした結果、精神的に参ってしまったというわけである。 語り終え、水を口に運ぶ亮を前に、明日香は思い切り頭を抱えた。穴があったら入りたかった。 普段無口な人間にここまで一気に喋らせるほどに追い詰めた兄が心底恥ずかしい。 もう聞かなかったことにしてその場を走り去りたいけれど、生真面目な性格と責任感がそれを許しはしないし彼女の主義に反している。 「本っ当に、ごめんなさい…」 心から深々と頭を下げてくる親友の妹に亮はいささか慌てた。 「いや、明日香、お前がそこまで責任を感じることはない」 「でも本人に罪悪感がなさすぎるんだもの!いつか取り返しのつかないことをしそうで…っ」 机に両肘をつきうなだれてしまった明日香が吐き出す台詞は同意できるだけに困る。 心労の多い被害者としての共感――身内である彼女は桁違いな気もするが――をしみじみと覚え、そっと相手の肩を叩く。 「お互い、本当に苦労が……」 「おやー、もしかして二人いい感じになったりしたんじゃないかい?」 耐えないな、と言おうとしたところで能天気な声がシリアスな雰囲気を粉砕した。 犯人は確認するまでもなく話題の中心人物、その人。 「………吹雪、何故ここにいる」 「あまりにいい雰囲気だからついつい誘われてっ」 語尾に星でも飛ばしそうなテンションが急速に空気を冷やしていく。 「何を、したかったのか、分かりやすく説明してもらおうか」 ポーズそのまま首だけを動かし、ごく静かな声で亮は問うた。 ん?とにこやかに応じた吹雪は得意のオーバーリアクションでもって朗らかな笑顔で答える。 「極限状態にいる男女は急激に中が深まるという…ならばそのドキドキ感を再現できないものかと思ってね!」 効果音まで聞こえてくるような輝かしいばかりのその微笑み、だがこの場面では火に油を注ぐだけのものでしかなかった。 「兄さん、言いたいことはそれだけ?」 吹雪が登場してから今まで、ぴしりと固まって動けなかった明日香が最初に発したのは低い問いかけ。 がたん。椅子から立ち上がる音、そしてゆっくり兄へと歩み寄る妹。 「明日香、俺の分も残しておいてくれ」 「もちろんよ、亮」 淡々と交わされる会話は主語がない。だがさすがに何を指しているか分からないほど吹雪は愚かではない。 「いやいや暴力は良くないよ暴力は。ほら、なんか亮の中で僕の行動に対するハードルが上がってるからそれに答えようかなあ、と」 「そんな期待をした覚えはない!」 雷が落ちる、という比喩表現は的確であることを吹雪は深く思い知った。 「で、オチは?」 一部始終を聞き終えて、優雅に紅茶を口に運んだ藤原優介はひと呼吸のちにそう訪ねた。 「オチ?!この話に求められているのはオチなのかい?!」 「まあ、吹雪自体が出オチみたいなものだしな…」 「ちょっとそこでしみじみしないで!しみじみしないで欲しいな藤原!」 大仰にショックを受けてみせる吹雪をさらりと受け流し、ひとりごちて紅茶をもう一口。 「それはともかく、吹雪の敗因は自らネタばらしをしたがるところだね」 「いやー、進展してるかと思うとついつい絡みたくなっちゃって」 驚きの回復力であっさり復活してみせた吹雪がへらへら笑って頭をかいた。 くすり、微笑ましげにする藤原の隣で腕を組む不機嫌な表情ひとつ。 「本人の前で反省会をするとはいい度胸だな」 ▼一度も書いたことのないキャラを主人公にして書く |