即興パッショネイト
棚から楽譜を探していたら、いつの間にか音羽が忍び寄っていた。わざわざ驚かす方向で声を掛けないで欲しいのだが、気分で動くこの先輩に進言したところで無駄だとも思う。またふらふらとパート練習を覗きに回っただろう自由な暴君様は、隣を陣取ってしばし考え込んだ。 この間はやばい、音羽が黙り込むと大抵が無茶の前振りである。奏馬部長ヘルプ!と胸中で叫びかけたあたりでおもむろに相手は口を開いた。 「オレは、何を考えているか分からないとよく言われる」 「でしょうね」 瞬間、額にデコピンを食らう。切り揃えられた爪が程よく当たって痛い。楽譜を抱えながら片手で患部を押さえて呻くと何事もなかったかのように語りが続く。 「黙っていれば退屈そうだの不機嫌だの勝手に推察されるが別に普通だ。わざわざ思ったことを吹聴して回る趣味もない」 それが原因で物事がこじれました、とは言わなかった。今の今でさすがに神峰も学習している。自分勝手な要注意人物は本人の意思と誤解が解けた現在、予測不能なブラックボックスと化した。改善したようで何かが悪化した可能性も拭えないが、音羽が楽しく過ごせることも大切だ。諦めた眼差しで音楽から離れるよりずっといい。 回想に浸ってじんわりする神峰の意識外で、一人納得の頷きを終えた相手が静かに言った。 「好きだ」 文章の繋がりが全く理解できない。落ちてきた三文字はその意を示す以外のなにものでもない言葉だが、処理する余裕が足りていない。 「あ、そうなん、スか」 「反応が薄いな」 「いやさすがに嫌われてたらヘコみますけど」 心情が視覚できる神峰は悪意や敵意に酷く敏感だ。音羽の場合、表には出なくとも彼の心に住むドラゴンと赤ん坊で察することが出来る。赤ん坊は隠れて見えない時もあるけれど、部活中は大体笑顔できゃっきゃしているので楽しそうで何よりだと思っていた。 だいたい、面白いからという理由で神峰を贔屓する男の何を理解できるのだろう。一気に長文で考えてようやく脳に現実が届く。 「えっ?」 音羽を見る、いつものすまし顔。視線を赤ん坊へ落とす。こっちを見ている、凝視している。無邪気な顔がにぱっと笑った。 「好きだ」 「ありがとう、ございます」 反射的にそう答えてしまったのは強迫観念ではない、はずだ。 味も素っ気もない始まりながら、二人の相性は悪くなかった。話す頻度が増えて、一緒に昼食を取る日が出来て、日常に音羽が組み込まれていく。CDを貸してもらいにお邪魔した彼の部屋にて、どさくさまぎれのキスもした。変える間際までやたらと嬉しそうな相手が可愛く思えた。 いつかの棚の前でまたもや遭遇。今回は先客の音羽へ挨拶しようとして、動きが止まる。今日はドラゴンから威嚇のオーラが出て見える、明らかに機嫌が悪い。そっとしたほうがいいのか悩むうち、視線を巡らせた音羽に見つかった。まあその場を動いてもいないのだから当然といえる。 何か言うべきか、口を開く前に赤ん坊が笑った。 「神峰」 あれだけ荒ぶる直前だったドラゴンの怒気が消え失せて、小さな両手が神峰へ向けられる。 「え、と」 ちわす、と動かす唇はぎこちない。そのまま無意識に問うていた。 「何かありました、か」 ぱちくり。瞬く仕草は本人と心象の同時再生。やおら己の顎に指を当てた先輩が目を眇める。 「お前は意味不明だな」 「へっ」 「基本は鈍いくせに、こういう機微はすぐ気付く」 それは見えるからです、などと言えるはずもなく、説明するのを避けた返答には無理があった。 「愛、とか」 落ちる沈黙。たっぷり二秒間ほど経ってから呆れた様子で音羽が口を開く。 「自分で言って照れるな」 「うっス……」 ネタっぽくするつもりが、思いのほか単語に恥ずかしくなってしまい神峰は耳まで赤かった。ふ、と笑んだ音羽の手が伸びて、癖っ毛をかき回すよう撫でる。不機嫌どころか上機嫌に移行したのならそれでいい。 音羽は案外よく笑う。最初の出会いと状況が状況だっただけにダンジョンの奥で待ち受けるボスのようなイメージを持ってしまったが、病院でモコとすぐに打ち解けていたり、話してみれば人当たりは悪くない。ただ、外見と内面のアンバランス、つまりドラゴンのような獰猛さと赤ん坊の無邪気さが合わさった結果、好奇心の暴走が酷かった。そのような時に浮かぶ笑みはニヤニヤという形容詞が相応しく、慣れないうちはハッキリいって怖い。テンションが上がれば上がるほど凶悪な様相になるのは完全に悪役の特徴だと思うのだがどうか。 しかし時折、先程のような微笑みが覗く。演奏が楽しかった満足げなものでも、はしゃいでいる笑顔でもない、感情の一部が零れ落ちた優しい顔だ。それが向けられているということが、何よりの証明だと感じる。 隣を得てのバレンタインは、紙袋に詰まったチョコレートという一般男子の都市伝説を目の当たりにした。そういえば去年も刻阪が凄かった覚えがあるし、イケメンとはこんなにあちこちにいるものなのかと人生の平等を憂う。 「不特定多数に騒がれてもな」 「モテる人の発言スよ」 「なんだ、羨ましいのか」 「音羽先輩、それマジ言っちゃダメなやつ」 ストップストップ、のジェスチャーを交えて嗜めるも、相手がそんなくらいで堪えるはずもない。ふふん、と口角を上げて覗き込むよう顔を寄せてくる。 「モテるオレに好かれているんだ、良かったな」 「そーですね」 棒読みになったのを咎めるようにキスで塞がれる。 「そういえば、話してなかったが」 まさに今気付きましたのていで告げられた進学先。 東京と聞いた、青天の霹靂だった。しかしよくよく考えてみれば当然の話で、そもそも先輩なのだから先に卒業するのだ。自分が進級して音羽が最上級生になった時点で分かりきっていたカウントダウンを今更自覚する。 否、彼が悟らせなかったのだ。部活を引退してもちょくちょく遊びに来て、プライベートでも共に過ごして、まるでずっと続くかのように傍に居た。ギリギリまで隠す訳、そして今伝えた理由。答えを聞くより先に手を伸ばす。 「卒業しても一緒がいい、です」 掴んだ腕に力がこもる。指が生んだ皺、手のひら滲む汗。小さな息が届いて、柔らかな声が降ってきた。 「ああ、オレもだ」 きっと赤ん坊は笑っているだろうけれど、この瞬間見るべきは彼本人だ。穏やかな笑みを向けて貰えたことに安堵して、神峰も笑う。 おそらく、間違わなかったのだろう。 *** 「そういえばオレ、ちゃんと好きって言いましたっけ」 「二年越しで気付いたか」 リビングでコーヒーを飲みながらの自覚に、音羽が雑誌をめくりながら淡々と答える。いやいやそれなら早く言ってくださいよ終わるところだったじゃないですかと言い募る神峰へにべもなく言い放つ。 「言わせたんじゃ面白くないな」 「完全に拗ねてましたね?」 黙った音羽の視線を紙面から自分へ向けさせて、こつんと額を当てる。一秒、目を閉じ静かに呟く。 「好きです、あんたが」 「知ってる」 「でなきゃ困ります」 遠距離を覚悟したつもりが一年であっさり終わった。 神峰が上京するのを切っ掛けに、だったら住めばいいとごり押しされ同居開始。高校のころから親交があるおかげで互いの両親もその方が安心だと言われる始末。願ったり叶ったりではあるけれど、お膳立てが完璧なのも考え物だ。 思い返せば吹奏楽部の時だって、航空券を用意しての大会偵察に甲子園突撃、バンド参加に衣装の用意まで至れり尽くせり大放出。彼は楽しくてやっていたのかもしれないが、受け取る側の驚きも考えて欲しい。 もうダメかもしれないと思った、あのアルプススタンド。力強い音が弱い心を吹き飛ばしてくれた。いるはずのない姿を目にした時、どれだけ心が打ち震えたか。 「ああ、そっか」 染み込むように納得する。無意識の確定はなかなかに早かったのだ。 「どうした」 突然の独り言に戸惑う音羽へ、にやっと笑う。 「音羽先輩に惚れた時のこと、聞きます?」 |