I Knew I Loved You
昼時を少し外したオープンカフェは、食事より休憩を求める人が多い。 国木田に怒鳴られながら事務所を抜け出た太宰のとばっちりが自分へ向くことを考えて、敦は溜息を紅茶で飲み下す。 仕事をサボったわけではなく、昼休憩の権利のはずなのだがそこはそれ。火薬に自ら引火して回る男が無意味に煽った。 それじゃ行こうか、と当たり前のように連れ出された背後で何かの破砕音がしたかもしれない。 国木田の私物へ心の中で合掌しながら、カップを置いた。 向かいの席で頬杖をつく太宰が雑踏を見つめていつもの表情。食えない、薄い笑みだ。 「眼福だねえ、願わくは私と黄泉の旅路を辿って欲しい」 視線を追えば清楚な美人がちょうど後ろ姿になるところ。すぐ基準に達する他の対象を観察するあたり、動体視力の無駄遣いだった。 ただ見ているだけなら男だし、で済まされる仕草も先刻の台詞が加われば狂気の沙汰。 あの人は素敵、という音程(トーン)で吐き出される世迷言はいつもぶれない。 女性の手を取り挨拶代わりに心中を申し込むのも幾度見てきただろう。 太宰治の日常へ組み込まれたリズムなのだと出会って早々に理解した。 ひとつ問題があるとすれば、敦とこの男はいわゆる――他に形容しがたいので選んだ表現だが――恋仲だという事実だ。 始まりは、というか始めさせられたとするべきか。 都合よく二人きりで邪魔の入らないお膳立てまで完璧な一室にて敦は退路を立たれた。 自分でも判別のつききらぬ淡い思慕を引きずり出し、答え合わせの如く彼は読み上げる。 そのまま放っておけばただの恩人への感謝で終わっていた、信頼で済まされたものを形にしてしまったのだ。 「敦君なら、構わないよ」 散々かき回した当の元凶が、訳も分からず崩れ落ちる敦を覗き込んだ。 買い物くらいいつでも付き合う、そのくらいの軽さで太宰は話を終えた。 何か変わるかと思えば特になく、むしろそれが有り難かった。 太宰はふらふら出歩いては問題を起こし、または解決する。 振り回される日常に安心しきった矢先の話だ。 忘れ物があるから、と太宰の家に寄り道をした日。 開けた扉を引く相手に促され、踏み入れた途端、身体が傾ぐ。 閉まる音と錠の音、後ろから抱き込まれる形になり敦は目を瞬いた。 「君は、私を警戒しないなあ。はい、こっち向いて」 一旦緩んだ腕の中で向き合うように抱き直される。見上げる角度は少し、首が痛い。 状況を把握できない敦へにこーっと笑って太宰の顔が近付いた。反射的に掌で止める。 べちん。間抜けな音と相手のきょとん顔。止められるとは心底思っていなかった様子だ。 「あの、太宰さんは、女性がいいんですよね」 謎の間に耐えられず発した、問い掛けではなく確認。 疑問符を浮かべたまま、僅かに首を傾げる太宰。 「私、君に応じてからは何もないよ」 潔白そのものさ、なんてしれっと答える態度に理解が追いつかない。 相変わらず心中相手を募っては袖にされ、懲りもせず声を掛けるのをしっかり見ている。 だがしかし、色恋そのものではどうかと云われれば確認手段がない。 傍に居ない時のことは分からぬ、裏を返せばそれ以外は傍に居る。 確かに、記憶を手繰ると太宰と過ごす時間は仕事を差し引いても多かった。 むしろ、ふらふらする以外は敦の目の届く場所に居るのだ。 処理しきれない思考を無駄だとばかり、太宰が笑う。 「敦君がいいな」 え、と音になる前に唇が触れた。見開いたままで至近距離、睫毛がこすれそうなほどの。 すぐに離れた体温の名残を考える間もなく、頬をくすぐる指。ごく視線な仕草で掌を当て、緩くさする。 ひどく愉しげな笑みが、浮かんだ。 「ふふ、いい子だから眼を瞑って?」 抗えず瞼を閉じれば吐息でも笑われ、今度はしっとりと唇が重なった。 押し付けただけで終わらず食む動きに肩が震えるも、いつの間にか支えにきた手が逃がさない。 上唇を数度、下唇を長めに一度。ちゅ、と音を立てて解放されると同時、視界を開く。 混乱で焦点の定まらない中、ぼやけた相手が舌先で敦の薄く開いた唇の隙間を静かに舐める。 「!」 押しのける力を今度は許された。抱き留める片腕が離してはくれないが、必死に呼吸を整える。 酸素が足りなかったことを今知ったように大きく息をする敦へ上機嫌な目の前の男。 「困ったな、可愛いから止められない」 ちっとも困っていない、むしろ興奮した色をちらつかせて瞳が揺れる。 「ねえ敦君、舌、舐めたいなあ」 そう云って覗かせた舌先の赤に酩酊感。 まだ少し荒い呼吸が鼓動と重なって、相手の腕に縋るようにしながら口を開いていく。 なお、続きすぎたキスに腰を抜かしたおかげで、その日は事無きを得た。 至極丁寧に段階を踏んで――スピードはどうなんだという話もあるにせよ――寝台に転がされたのは言うまでもない。 太宰はとにかく優しかったし、無理強いもなかった。 ただ与えられた選択肢が承諾のみであったのもまた事実といえる。 今日はどう?そんな天気を尋ねるみたいに望まれて、拒んだことは一度もない。 敦が頷くギリギリの線(ライン)をいつもいつも。そして進む関係に微笑むのだ。 遊ばれている、にしては周到すぎる。手間だけ掛かって易もない。 利があるとすれば敦を好きに出来ることだけで、それだって現状の通り。 マイペースで困った上司、二人になれば悪趣味な恋人。否、悪趣味なのは根底であった。 とっくに終わった昼食も、追加のデザートが卒なく出されて今に至る。 プリン・ア・ラ・モードは絶品だが、甘味で誤魔化せない靄がちらつく。 それはずっとずっと頭の隅に有り、考えないよう自己防衛が働いていた。 器とスプーンのぶつかる金属音、無意識で指を動かして弾いたのだと気付く。 太宰は雑踏を向いたまま。その横顔に誘われて零す。 「僕じゃ、駄目なんですか」 「駄目だよ」 平坦な即答。カラメルの苦さが舌を刺す。 つい、と彼の視線が敦へ注ぐ。柔らかく細められた眼差しで笑った。 「好きだから、連れていってあげない」 世界の音が全て止む。 呼吸も忘れ、硬直した敦を置いて周りは動き出す。否、遮断したのは己の方だ。 鼓動だけがやけに大きく頭に響き、二人の座るテーブルがまるでどこかへ切り取られてしまったような錯覚を覚える。 太宰はそれこそ睦言のような甘さで繰り返す。 「好きだよ、敦君」 |