逆転ノンフィクション


玄関を通って最初の扉、開け放てばキッチンとリビングの繋がった部屋に出る。
食卓へ早足で進み、無言で椅子へ腰掛けた主を左近はいつものごとく出迎えた。

「お帰りなさい、寒かったでしょう。お茶淹れますか」

振り返って驚きの声。それを聞きながら三成は机に突っ伏した顔を僅かに上げた。

「吉継に会ったが覚えていなかった」

低い絶望の音。地を這う響きで沈黙が落ちる。
たっぷり三秒、左近が口を開いた。

「お疲れ様です」
「労うな!」
「会っただけじゃ逆にそうはならんでしょう、やらかしたんですね?」

ぐ、と詰まる三成に左近は容赦がない。
腕に額を押し当てながら、白状する。

「名を呼んだが、人違いで押し通してきた」
「なんという力業を……」
「完全に不審者になるのは避けたい」
「無理じゃないですかね。で、次の奇跡を待つんですか」

予想通りの呆れた返答、ずけずけと言い募るかつての家臣へ恨めしげな視線を飛ばす。

「連絡先は交換した」
「まさかの」

心底驚いた、という顔の左近に溜息を吐いて、つい先刻の出来事を思い返した。

***

チャージ忘れの乗り越し精算。ICカードに慣れたからこそ陥りやすい罠。
中途半端な規模の駅では精算機が一台であるのも珍しくない。
改札にて聞こえた警告音に舌打ちをし、三成はカード片手に列へ並ぶ。
幸い、並んでいるのは自分を含め二人だ。チャージを終えた先頭のサラリーマンが退き、次の男が歩み出て、止まった。

「?」

疑問符が浮かんだのは三成も同じ。相手は現状に、三成は男の行動に。

「失礼した」

どうぞ、と脇へ避けた相手の横顔に目を見開いた。思わず手首を掴む。

「吉継」

零れ出た名は忘れるはずもない唯一のもの。
マフラーで隠れた口元と、記憶の装いが重なって合わさる。
三成を振り返った表情は驚きに彩られ、ぱちりと瞳が瞬いた。

「どこかで?」

急激な寒気とともに我に返る。だがしかし掴んだ手をすぐには離せず、精算機の前から距離を取った。
まだ後ろに誰も居ないとはいえ、陣取っていい場所ではない。
都合、引きずる形となった吉継は大人しく手近な柱までついてきたが三成をまっすぐに見つめてくる。正直とても痛い。
ようやく手を離し、目を逸らす。

「人違いだ」

さすがに苦しかった。だがしかし、視線を留めたままの吉継は淀みない返答をくれた。

「そうか」

相変わらずそのままを受け止める男である。ここで別れてもおそらく、そういう流れか、で済ませてしまうだろう。
それは困る。邂逅すら奇跡の現状をどうにか繋いでいかなければ。
糸口を見出そうと考えあぐね、当初の疑問をぶつけてみた。

「精算はいいのか」
「ああ、できないんだ」
「できない?」

突然の問い掛けにも戸惑わず静かに答える相手。懐かしさと警戒心のなさに憤る勝手な気持ちを抱えて言葉を繋ぐ。

「財布を忘れたらしい」

らしい、も何もお前のことだと言ってやりたい。
パスケースのみ持って出掛けてしまう単純ミスだ。携帯は持っているから知人に連絡を、と慌てない様は他人事のよう。

「無一文でどうするつもりだ」

季節は冬だ。駅構内とはいえ、突っ立って待つには少々辛い。

「ええい、これで帰れ!用があるなら財布を取ってからまた来るのだよ!」

手早く乱雑に抜き取った現金を押し付ける。額を確かめ、吉継が瞬く。

「五千円、は大きすぎるのでは」
「手持ちがそれしかない。足りぬよりいいだろう」

さっさと行け!と口にしかけて慌てて噤む。この場面で五千円など惜しくもないが、追い立ててどうする。
眉を顰めてしまった三成へまた視線を送り、吉継が携帯を示す。

「では、連絡先を。必ず返す」

微笑むように細まる瞳が胸を打つ。
会釈して改札を抜ける吉継が見えなくなるまで、三成はその場に立ち尽くした。

***

「よかったじゃないですか」

詳細を省いて語り終え、再度突っ伏した三成に軽い感想が届く。

「どうするんだ。返してそれで終わりじゃないのか」
「そこは殿の頑張るところでしょう」

にべもない上に正論だ。
世は戦国でなく、平和な社会。かつて志を共にした相手と一から築く関係はいかほどの困難か。
最初から記憶補正で傍に居る左近とは訳が違う。

「話してみなきゃ分かりませんよ。気が合わなきゃ、前だってあれだけ一緒にいないんですから」

三成の心を読んだかのごとくフォローする細やかさに唸る。

「唸るより、礼が欲しいですなあ」

ぼそぼそと呟いた簡素な礼に左近は笑って、今日はシチューですよと鍋に向かう。

連絡はその日のうちにメールで届いた。文明の利器は偉大である。
丁寧な文面を視線でなぞり、律儀さに息を吐く。
やはり、吉継は吉継だ。直近の予定を擦り合わせ、日程を決めた。

***

駅近くのカフェ、窓際の席。三成の姿を認めた相手は立ち上がり、軽く手を上げた。
応じる片手を示し、さほどない距離を歩いて席に着いた。
挨拶と互いの注文を済ませてから、しばしの間。
長財布から折り目のない紙幣を取り出し、吉継が笑う。

「見ず知らずの相手に五千円札とは、随分と気前がいい」

お前だからだ、の言葉を飲み込む。
吉継相手であれば一万円でも迷わず渡していたし、手持ちがなければ下ろすくらいはする。
さすがにそこまでしては引かれた恐れもあるので、現金があって本当に良かったと思う。
無言で受け取って財布へしまうと、吉継が続ける。

「まあ、あの場でチャージして残りを返すことも出来たわけだが」
「!」
「受け取る流れだと思ったのでな」

完全に失念していた。精算機を通せばすなわち両替となる。そこまで気の回らなかった自分が情けない。

「おかげで助かった、ありがとう。しかしそちらは困ったのではないか」
「元より帰るだけだった。足りなければ下ろせばいい」

つっけんどんな返事になってしまい、話題が途切れる。しかし相手は気分を害するでもなくカップを持ち上げた。ばつが悪く、問い掛ける。

「お前は、用事があったんだろう」
「映画のつもりだったが、大人しく家に居た」

もう一度出るには寒かった、そう付け加えた吉継の表情は変わらない。
そしてそのまま、更に言った。

「もし良ければ、今から一緒に観ないか」
「は?」

***

「お帰りなさい、どうでした?」

玄関から一直線、リビングまでずかずかと歩いてきた三成にのんびりした声が掛かる。
ソファへどっかりと腰を下ろし、頭を抱えた。
並々ならぬ様子に心配する気配が近付く。
搾り出すよう、結果を伝えた。

「そのまま映画を見て感想を語り合った」
「親密になるの早すぎません?!」

左近のツッコミに俺が聞きたい!と声を張り上げる。
上着のポケットから振動が伝わった。おそらく、今日の礼だろう。

吉継と観た映画は近未来アクションもので、各所に張られた伏線が見事だった。
遅い昼食もかねた喫茶店にて議論を交し合った頃には当初のぎこちなさなど跡形もなく、次の予定まで出る始末。
話してみれば、なんと学部は違えど同じ大学と判明。一気に足場が出来てしまった。
学食で時間を合わせたり、帰りに寄り道をしてみたり。
それはもう平和な学生生活そのものである。
当たり前のように互いを呼び、傍に居る。日常のなんと尊いことか。

寄り添って過ごして数ヶ月。レポートを遅くまで仕上げた三成は寝不足だった。
元々寝付きもあまりよくない。幼少の頃、記憶を取り戻してしばらくは悪夢にうなされることも多かった。
行きつけのカフェでぼんやりする顔をまじまじとみつめる吉継が席を立つ。

「三成、今日の予定は中止だ」

立て、と促され腕を取られる。
訳の分からぬまま駅へ向かい、ほとんど条件反射で改札をくぐった。
電車に乗る時間も長くはなく、引きずられて訪れたのは簡素なアパート。
鍵の回す音で一瞬意識が覚醒し、中へ迎える吉継を見る。

「そのまま返すのも心配だからな、寝てから帰れ」

有無を言わさず連れ込まれ、座布団の上へ大人しく座る。
外見の割に力が強いのは変わらぬようだ。
背に当たる場所にはベッドが有り、凭れるにはちょうど良い。
一人暮らしのよくある1Kはこざっぱりしていて、余計な調度品も特になかった。
折りたたみ式のテーブルへ急須と共に湯飲みが二つ。隣に腰を下ろした吉継が茶を注ぐのを黙って見つめる。

「寝ろといいながらカフェインか」
「お前の状態でこれぐらい効くものか。温まって寝ろ」

ぐうの音も出ない。温かい茶を啜り、湯飲みを持っているうちまどろんでくる。
不思議なものだ、いくら眠くとも外では体調に響くだけで寝落ちもしない。
吉継の傍では、こんなに簡単に睡魔に誘われるなどと。
手から湯飲みが奪われる。机に置く音を聞いて、横に傾いだ。
相手の肩へ頭を乗せたところで、意識が落ちる。

***

眼前に広がる光景に、ああまたか、と気分が沈む。
遠い遠い過去、記憶だけが鮮明に苛んでくる。
そもそも、見てはいないのだ。その場面を、三成はついぞ見たことがない。
伝え聞いた事実が映像として形作られているのだろうか。
声が出ない、届かない。いつも離れた場所で吉継は。

「三成」

呼ばれてうっすらと視界が開く。
伸ばした手がしっかり掴まれて、握られた。

「お前が……置いていくから」
「ここにいる」

はっきりした声に意識が冴える。手を握り、覗き込む顔。
ただただ真摯なその視線を知っている、今も昔も変わらぬ盟友のものだ。
状況が把握できず見つめ合いながら、三成は固まる。
視界がおかしい、そう考えてベッドの上だと気付いた。
おそらく寝入った自分を運んだのだろうが問題はそこではない。

「うなされていた」
「……だろうな」

簡潔な説明へ相槌が精一杯だ。非常に気まずい。
握り合う手は未だ繋がれ、自分から離すのも躊躇われる。

「お前は誰にでもこんなことをするのか」

何を言っているんだという自覚はあったが、さすがに冷静でいられなかった。
部屋に上げるまではともかく、過ぎた親愛だ。
眠気でぼんやりしている間はまだしも、覚醒しては戸惑う。
吉継は、三成に甘すぎる。

「人の面倒を見るのは初めてかもしれないな」

僅かな角度で首を傾げ、答える相手に含みはない。
知っている、いつだってこの男はそうだった。
やりきれぬ気持ちで奥歯を噛みかけ、次いだ言葉に耳を疑う。

「お前は放っておけない」

まっすぐ染み込んでくる、その想い。
言い切る吉継に迷いなど見当たらない。

「ずっと世話を焼くつもりか」
「それも悪くない」

涼やかな返しに思わず口にした三成に他意はなかった。

「まるで恋仲だな」
「では、そうするか」
「?!」

軽い肯定に瞠目する。繋ぐ手がゆるく外され、掌が合わさった。

「お前の側で案ずる理由が必要ならば俺はなんでもいい」

鼓動が大きく頭へ響き、乾いた唇を動かして告げる。

「俺は……お前がいい」

触れる皮膚は少しだけ震えて、吉継の瞳が柔らかく笑んだ。

「そうか、ありがとう」

指を深く絡ませ合い、再度握る。
再び訪れる眠気に、また抗えない。

***

頭が痛い。さすがに寝すぎた感覚がする。
今は何時だと確かめかけて、違和感。己の部屋ではない、更に隣り合う体温が近い。
おそるおそる首を巡らせ、息を飲む。美しい寝顔が無防備に、目の前へ。
長い睫は瞼を縁取り、静かな吐息が唇から零れていた。
飛び起きたい衝動を必死に堪え、呼吸を整える。
途端、ぱちりと相手の目が開いた。

「おはよう、三成」
「!!!??」

声もなくうろたえる三成を気にせず、吉継が窓へ視線をやる。

「外は暗いか。そろそろお前を帰してやらねばな」
「お、お前、起きて、」
「つい先程。お前がもぞもぞと動くので」

悪びれなく答える吉継は、思いついたように、ああ、と呟き。

「それとも、朝帰りをしてみるか?」

楽しげに微笑んで両頬を引き寄せてきた。


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