綻ぶように


この船に乗り込んでからどのくらい経っただろう。あまりに目まぐるしい出来事ばかりが続いたせいで錯覚しそうにはなるが、思ったより短い期間なのだと日付を確認してひとりごちる。
世界そのものの危機が優先とはいえ、長らく国を空けてしまった。帰ったら労いよりも先にお小言と、詳しい説明をしたらしたで、なぜそんな楽しいことに混ぜなかっただの馬鹿なことを言われるのだろうか。苦労の皮算用をひとしきり終えて、ジェイドは深々と溜息をつく。甲板に出て風にでも当たろうと廊下を歩く途中、はしゃぐ少年たちが目に入る。
飛び交う技名やモンスター名、時折混じる笑い声が賑やかだ。若者の異文化交流という点では今回の騒ぎも悪くはない、なんて多少強引に結論付けても罰は当たるまい。輪の中で無邪気に笑うルークを見てそう思う。

彼と出会ったのは一年前、珍しく真面目な顔で呼びつけられ、何事かと話を聞けば一人の少年のおもりだった。

「目付け役、つーか相談役な」
「おもりとどう違うんですか。だいたいそんな身分ならば付き人がちゃんといるでしょう、私にする必要が」
「ある」

至極まっとうな意見で断ろうとしたジェイドを一言で黙らせて、ピオニーは薄い笑いを浮かべて言った。

「ぬるま湯で駄目なら荒療治、ってな。俺も心配なんだよ、そのままでいいとは思わない。誰かが背中を押してやるってのもアリだろ」

意図がさっぱり分からないまま、仕事がひとつ増えてしまった。
一週間に一回、数時間の拘束とは片腹痛い。何がどうなってこんな馬鹿馬鹿しい展開になったのかと痛む頭を抑えながら初日を迎える。


「どうぞ」

軽いノックに答える声に従って開いた扉の向こう側、特に散らかった様子もなく整頓された部屋の端、
窓に近い位置に置かれた椅子に座った少年が立ち上がる。

「ルーク・フォン・ファブレって、まあ知ってるか。とにかく、よろしくお願いします」
「ジェイド・カーティスです。こちらこそ……と言いたいところなんですが、私は何をしたらいいのでしょうか?」
「魔法学の先生って聞いたけど……違うのか?ていうか、それ軍服だよな?」

問いに疑問で返された不服だとか不思議そうに眺めてくる相手より何より、説明不足に程がある皇帝陛下に僅かな殺意を覚えたのは致し方ない。

とりあえず自己紹介も済み、基礎から話でもして責務を終えてしまおうとその日はさっそく講義に入った。驚いたのはルークの飲み込みの速さで、こちらが説明した事柄を順序どおりに吸収するだけでなくその場その場できちんと応用して見せた。予想外に手ごたえのある授業となり、みるみる時間が過ぎていく。

「では、今日はこの辺にしておきましょう。次は参考になる本をいくつか持って来ますよ」
「あ、うん。ありがとう、ジェイド」
「いえ、私もなかなか楽しかったですよ、ルーク」

退室前のなんてことはない挨拶のとき、ルークの表情が驚いたように止まった。

「俺のこと、ファブレのほうで呼ばないんだな」
「あいにく家柄には露ほども興味のない性分でして」

にべもなく言い捨て眼鏡を押し上げた視界の先に見えたのは、笑顔。
彼は大きく目を見開いたのち、くしゃりと笑って見せた。それは嬉しそうに。

後で知ったのだが、ルークは皇位継承権というさして有り難くもないものをもっているがゆえの権力争いの渦中で育ち、 心を開く相手が少ないとのこと。まあそれは珍しくない話ではあるとはいえ極端だったのは軟禁に近い教育方法のせいで培った世間知らずの度合いだ。聞けば幼馴染である付き人のガイ以外に同年代の知り合いもいないらしい。
日がな一日、くまれたスケジュールの稽古と勉学で十数年、王族なら当たり前と言い切れるかどうか。
自宅から出ることさえ禁じられるなど、まともな人間が育つはずがない。そして接する数少ない家庭教師の呼ぶ名前は彼のものではなく家のもの。ジェイドが普通に名前を呼ぶだけで彼には、ルークには嬉しい出来事に相違なかった。
同情などしない、ただその周りを取り巻く環境には反吐が出る。

時間を重ねていけば懐くのは道理であり、ルークは週一の授業をそれは楽しみにしていた。講義の合間に雑談を挟むのも珍しくなく、ジェイドは彼の見たことのない場所や伝聞でしか知らない祭の様子などを何とはなしに語る。

「ああ、わかるわかる。当てんのコツいんだよなー」

相槌が生まれたのは子供がよく遊ぶ露天の出し物。ボールを的に当てる、それだけのゲームは簡単だからこそ熱中しやすく祭特有の空気で盛り上がりやすいものだ。
しかし、相槌がおかしい。今の発言ではまるでやったことがあるようではないか。

「ルーク」
「いや、あ、その…」

己の失言に気付いたか、名を呼ぶ静かな声にびくりと肩を竦めしどろもどろになるルーク。

「抜け出した前科はいかほどで?」

端的に分かりやすく指摘すれば、諦めた様子で息を吐き、口を開く。

「ごく、たまに。ガイが連れてってくれた」

ルークと交流を始めてから必然的に顔を合せる爽やかな幼馴染の付き人は彼にとことん甘かった。祭だけでなく、家人の目を盗んではちょくちょく街に繰り出していたらしい。顔が知られていなさ過ぎるのも役に立つようだ。

「貴方、そういうところ陛下にそっくりですよ」
「へ?」

溜息と共に吐き出した困ったような声音にルークが間抜けな反応を。まあ無理もない。

「あの方もよく抜け出して遊んでいたものです。私が出会ったのもそのせいですしね」

次々語られるさして面白くもない思い出の断片を聞き取り、驚いた視線がジェイドに向く。

「ああ、言ってませんでしたか。陛下とは昔からの付き合いなんです、残念ながら」

肩を竦めて伝えたルークにとっての驚愕の事実に大きく声を上げ、指をさして固まったのは面白かった。

思い返せば随分とぬるま湯だった気もするのだが、彼が親善大使になるまでそれは続いた。本国に帰ればもう前のような関係には戻れまい。ルークはもうお飾りの王族ではなく、自分の足で立って歩く若者なのだから。
感傷など己らしくもない、胸中で自嘲しながらジェイドは甲板へと足を向ける。


***


ルークは雑談の最中、不意に目を向けた先に映った軍服の青に意識を奪われた。
向かう先はきっと甲板、そう考えるともはや話に集中できなくなり、その場を辞して彼の後を追う。
開けた視界、眩しい太陽が照らす気持ちのいい場所に彼はいた。

「ジェイド」
「おや、皆さんと話さなくていいんですか?」

もうすぐお別れですよ、と暗に言われるが笑って返す。
確かに皆と話すのは楽しいし、会えなくなるのはかなり寂しい。だけど今、ジェイドと話す時間が欲しいのも確かだった。

「なあ、ジェイドっていくつなんだ?」

たわいのない会話の合間、だいぶ前からの疑問をぶつけてみたら、想定外の数字が示された。

「今年で三十五になります」
「ちょ、お前若く見えすぎだろ詐欺か」
「貴方の倍は生きてると言ったじゃありませんか」
「本気で倍だったのか……」

言われた、確かに言われた。年の功だのなんだの言い出すから、お前それほど年食ってねーだろ!と噛み付いたら、少なくとも、の後にその言葉がついてきたのだ。そのときは適当な事をと思っていたが、まさか本当だとは思いもしなかった。


「あのさ、ジェイド」

ずるずる世間話をするために上がってきたわけではない。
今だから、むしろ今でなければいえないことを言う為にきたのだ。

「ごめんな」
「はい?」

いきなりの謝罪にジェイドが怪訝な表情になる。
彼は意味のない謝罪が嫌いだった。出会った当初、ごめんが口癖だったルークにぴしゃりと言ってのけたのは
今考えるとかなり無茶苦茶な台詞だ。

――あやまらなければどうしようもない時だけ謝りなさい。

その言葉に思わず笑ってしまって、それを見たジェイドが呆れた顔になったあと、少しだけ優しく笑ったのを覚えている。ジェイドはいつだってルークに優しかった。

「俺の護衛任務についたからこんな事に巻き込まれて……ほら、お前には仕事もあるのに」

理由を詳しく述べれば眉間の皺が少しばかり減って、やれやれとでも言いたげに首を振る。

「貴方が私の知らないところで危険な目に合う方がよっぽど心臓に悪いですよ」

それに、と続ける相手の瞳が悪戯っぽく笑う。

「ここにいるおかげで得たものは私にもありますから、色々と」

首を傾げなんのことかと尋ねれば、静かな微笑を浮かべ。

「貴方が楽しそうで何よりだということです」

潮風を受けながら遠くへ視線をやったジェイドは軽く目を閉じ、ルークへ向き直るとまっすぐ見つめ言葉を紡ぐ。

「人と関わることを怖がっていた貴方が、今はたくさんの仲間と呼べる関係を作り上げました。
お目付け役としては感慨深いものがあります」

穏やかに語られるのは最高の賛辞に他ならない。胸が熱くなり、拳を当ててぎゅっと握るとしっかり見据えたまま口を開いた。

「ジェイドが、ジェイドがいつも俺の味方だからだよ」

言い出してしまえば止まらなかった。

「お前は仕事かもしれないけど、俺はずっと嬉しかった」

何もかも諦めたように生きかけていた中で、叱り付けてくれた初めての相手だった。だから前へ進もうと思えた。

「ありがとう、ジェイド」

心からの感謝を込めて告げれば、自然と笑顔が零れてくる。笑うことさえ疲れていたのはいつまでだったろう。

「まったく……純粋とは一番たちが悪い」

しかしジェイドはいつもの涼しげな表情でしばらく止まったのち、額へ手を当てて深々と息を吐く。

「いくら仕事でも、面倒もしくは私がやる必要を感じなければお断りするのが常でしてね。貴方も最初は本当にどうでもよかったんですよ」

次いで唇から零れてくるのは愚痴のような響きを持つが、その実違うもので。

「私の態度に喜んだ奇特な人は初めてですね。笑い飛ばした失礼な人ならいましたが」

つらつら並べ立てる言葉を一旦切り、呟く。

「目が、離せません」
「ジェイド?」

ルークの呼びかけにハッとしたジェイドは平素の表情を取り戻し、淡々と語りだす。

「本国に帰ったら忙しくなるでしょう、ここほど頻繁には会えなくなります。私はしがない軍属で貴方は王位継承権を持った方ですからね」
「だから、何だよ」

そんなもの今更だ、そう言い掛けたルークを遮って尚も言う。

「今までとは訳が違います。貴方をお飾りと思う人はいなくなるんですよ。貴方はそれに見合った行動をしなくてはならない」
「俺はジェイドと話したい」
「ルーク」

嗜める声が耳に届く。でも聞くつもりはない。

「俺が最初に信用した城の人間はジェイドなんだ。お前がいなかったら親善大使になろうって言い出せたかも分からない、ずっと自分の意見も言えなかったかもしれないんだ。そんなお前と話せなくってみんなに認めたれてもちっとも嬉しくなんかない」

まとまるか分からない気持ちを何とか言い切って、息をつく。しっかりと見つめ、問いかけた。

「ジェイドは俺と仲良くするのは嫌なのか?」
「嫌なわけないでしょう」

即答で返ったのは怒ったような声色で、ルークは思わず目を瞬いた。
ジェイドは苦々しげに首を振り、嘆く。

「貴方、私がどれだけ苦労して抑え込んだと思ってるんですか……信じられない」
「何を?」

本日何度目かの大袈裟な溜息は諦めを含んでいて、観念した表情で相手は告げた。

「私は貴方が好きなんですよ」
「俺も好きだよ」

さらりと応えてみせるルークにいよいよ疲れ果てた態度でジェイドは否定を搾り出す。

「そうではなく――」
「違わない」

はっきりした遮りに驚く顔。

「なんですって?」
「ジェイドの好きが親愛じゃないなら違わない、一緒だ」

その瞬間、驚愕に目を見開いて固まったジェイドは最高傑作以外の何でもない。

「お前、俺のこと甘く見すぎ」

いまだ動けぬジェイドへ飛びつくよう抱きついて、ルークは嬉しそうに笑う。

「帰っても離れてなんかやらねーよ」


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