決定打
のんびりぽかぽかした春の陽気。 相変わらず荷物の少ない部屋でお茶をすするぼんやりした人が天才だなんて誰が思うだろう。 大学へ進学し、たまに遭遇する元担任の先生のあんまりにあんまりな生活に我慢がならず、無理矢理きちんとした食事を差し入れたのが去年の夏。 全てをお惣菜やお弁当に頼って生活している人は世の中にたくさんいるはずだ。 なのに、それなのにツナ缶で日々を過ごそうだなんて精神が本気で信じられなかった。 在学中ならお互いのことも考えてここまでの無茶もしなかったかもしれないが、卒業してしまえばこっちのもの。 相手も拒むどころか喜んでくれちゃったりしたら、習慣化してしまうに決まっている。 よって、かなり定期的に若王子貴文の住居へ通う運びとなった。 私が持参したお煎餅を「やあ、これはおいしい」とにこにこ食べて、ふわりと笑う。 ああ、この笑顔に何度癒され、そして勇気付けられたのか。 「私、若ちゃんならお嫁さんになってもいいなあ」 ぽつり、呟いた言葉に相手が激しくむせた。 「若ちゃん、どうしたの」 どうしたのも何も、という視線だけ向けて盛大に咳き込み続ける。どうやら気管に入ったらしい。 片手で制止するポーズをとりながらひとしきりむせて、ぜーはー息を整えて涙を拭った。お疲れ様。 若ちゃんが必死な間、元凶の癖に見つめ続けていた私へしっかり向き直り、至極真面目な顔で彼は問うてきた。 「お嫁さんになりたいですか?」 「そう返してきたか」 その職業になりたいですか?とでも言わんばかりの聞き方で尋ねてきたものだから思わず切り返す。 途端、困ったような表情になったので仕方なく譲歩して言葉を続ける。 「でも私、若王子って苗字に合わないかも」 「じゃあお婿さんになります」 すぐさま重なってくる台詞に笑いが零れた。 「えー、若ちゃんじゃなくなっちゃう」 「呼び方、変えてくれないんですか?」 「貴ちゃんがいい?」 「考えておきます」 とりとめのない言葉遊び、ひとしきり和やかな笑いを楽しんでしばらく、 こほんとわざとらしい咳払いをして控えめに若ちゃんが口を開いた。 「ところで、僕たちまだ何も言ってませんよね?」 「若ちゃんが卒業式で盛大に友好関係を主張してくれたので」 「…ごめんなさい」 お茶をすすりにべもなく言い放つと、ばつの悪そうな声がひっそりと落ちた。 別に悪いのは彼だけではない。 思い返せばとても不安定な関係だった。 一緒に帰ったり、準備室でコーヒーをごちそうになったり、あまつさえ「花火大会に行きたい」とはしゃぐ 無邪気な様子を断りきれず二人きりで出かけたこともある。 はぐれないようにと手を繋いだ時の感覚は、恋人というより家族に思えた。 時折よぎる何かを、お互いに見ない振りしていたのかもしれない。 病気で休んだ時のお見舞いや、合宿での遭難未遂、私の無事を認めて安心しきった笑顔を浮かべた若ちゃんを、今でも鮮明に思い出せる。 だけどお互いにきっと臆病だった。私は心地良い関係を崩すのがどうしても嫌で、若ちゃんはそういうものを信じていなかった。 なんでもない話の中でものの弾みで訪ねた時、曖昧な微笑で彼は答えた。 「よくわからない、ままですか?」 「分かりたくなかった、が正しいですね」 昔と同じ微笑で若ちゃんは言う。 私は何も知らない、知っているのはいつかの放課後、おびただしい量の数式を一心不乱に書く姿のみ。 同級生が言っていた黒服の噂はどうでも良かったけれど、黒板に並ぶそれを見て、天才の文字が頭を踊った。 「私、若ちゃんのこと何も知らない」 「うん」 「過去とかじゃなくてね、理解しようとしてなかったと思う」 青春をめいっぱい謳歌して、その中のひとつに若ちゃんを紛れ込ませていただけなのだ。 それでいいと彼は笑う、でもそれだけじゃ私の気持ちはもう治まらない。 「うん、じゃあお互いにごめんなさいしよう」 静かに柔らかく告げる声、いつの間にか伸ばされた両手が、そっと私の手を包み込む。 下げた眉尻のまま、ごめんなさいと繰り返し、数秒目を閉じてから、私を見つめなおした。 「そして、今から始めよう」 再び開いた瞳は透き通り、強く、真摯に語りかける。 「僕は君が好きです。一緒に、いて欲しい」 できれば。後付けされた言葉がおかしかった。 「できれば?」 「いや、あの、できたら」 「変わらないと思う」 「願わくば……」 「ああもう、はっきりしないなあ」 ぐだぐだと続くかに思われた恥ずかしいやり取りは、ある意味お約束というか古典的な台詞で幕を閉じる。 「ずっと一緒に、ご飯を食べて下さい」 「よろこんで」 |