まつとしきかば


午前の終了を告げるチャイムが鳴り、一気に騒がしくなる教室。
解放感に思い切り背伸びをして、机にかけた荷物を見遣る。程なく、クラスメイトの声が掛かった。

「おーい佐助、若様が来てるぜー」

聞き終わらぬうちに紙袋を手に取り入口へ向かう。
足取り軽く着いた先ではそわそわと待つ相手。

「はいはいーっと、お呼びで?」
「うむ」

昼休み開始五分、毎日ほぼぴったり訪れる後輩のあだ名は『若様』である。理由は時代錯誤な口調と彼の家業。老舗の和菓子屋の次男坊、ということで名前も合わせて違和感もさほどなく受け入れられたとか。その時代劇っぷりを増長させているのは佐助の呼び名に他ならないが、妙にしっくりとくる二人の受け答えにやはり周囲は慣れてしまった。
チャラチャラした年長者が真面目な年下をからかっている――なんてよくある話もここでは別で。傍から見ればふざけた主従ごっこは佐助には染み付いた役目なだけ。
学年の違う教室へ臆することなく訪れた彼へ笑いかける。

「今日は天気がいいから屋上いこっか」
「よし!ゆくぞ佐助!」
「ちょっとちょっと弁当持ってんだからさ、走ったら崩れるよ」
「む、それはいかん」

待ちかねた様子で走り出しかけた肩を慌てて止めれば、すぐ頷いてゆっくりと歩く。

「そこまで慎重にするのも違うでしょ」

なんでそう極端なの、とすたすた進む佐助へ今度は相手が早足で追いついた。

「旦那と俺様じゃコンパス違うもんねー」
「なっ、俺はまだ伸び盛りなのだぞ!」

――だって旦那、結局追い抜けなかったしねぇ。

脳裏に浮かぶは鮮烈な紅、長い鉢巻をはためかせ二槍を握って戦場を駆けた己のただひとりの主、真田幸村。
馬鹿馬鹿しくもやっかいなことに、猿飛佐助はいわゆる前世の記憶を所持していた。


***


「まつ姉ちゃんの弁当ほんと上手くてさ」
「なんの!某の佐助もまっこと見事なり!」
「やめて旦那、若奥様と勝負したくない」

屋上に集まる面子はいつも騒がしい。縁とはむしろ呪いではないのか、とでも毒づきたいほど佐助の周りは見覚えのある顔大集合だ。それぞれ記憶がどうかも知らない、ありていに言えば興味がない。かすがくらいはちょっぴり気にならなくもないけれど、ほじくり返してどうする。彼女と小学校からの腐れ縁が与えられた現世は全く持って僥倖の限り。そこそこの頻度で昼食の集まりへ顔を出すのを嬉しく思う。平和な時代の有り難きよ。

幸村と再会したのは高校二年、入学式の桜の下とかやけにドラマティックな背景だった。
満開の花びらは春の風で舞い遊び、こりゃ土日が来るより早く散るなと教室からぼんやり眺めていた視線の向こう。
ひときわ大きな桜の幹へ向かい立つ少年が一人。思わず椅子を蹴って立ち上がった。ガラスの外側、窓のあちら側。
見間違いかもしれない、いやそんなはずがない、佐助が、猿飛佐助が主を見まごうはずがないのだ。
駆けつけた途端、強いつむじ風。巻き上がる花びらと共に彼は振り返る。

「――佐助か」

自分を認め、ただ一言。
名を呼ばれただけで震えが走った。

「だ、んな」

呆然と呟いた佐助に、幸村は笑う。

「久しいな」

その言葉が、全てを決定付けた。
現世にあれど、かの主から離れることまかりならん。

しかし、イベントといえばそれだけで、実はその後なんともない。
幸村は当たり前だが現代に順応していて、佐助以外には普通の高校生だ。否、そもそも佐助にだって、仲のいい先輩後輩であるだけ。過去の話など振らない、口にしない。呼び名だけが宙に浮く。
甲斐甲斐しく世話を焼く姿は滑稽だろう、しかし懐く相手に嘘もなかった。

「てめぇら仲良すぎ、つか兄弟ってより親子だな」

元親の呆れたようなツッコミも何度目かしれない。
いつも受け流すノリを、その日はなんとなく変えてみた。

「そーそー、俺様ったら身も心も旦那のものだからー」
「気色悪い」
「かすが、ひどっ」

わざとらしくしなを作ったところ、間髪入れず冷たい声。
侮蔑の眼差しに即反応したその時だ。

「知っておる」
「え」

済ましてぽつりと、肉団子を口に運ぶ合間に放たれた言葉に固まる。そのまま咀嚼を続ける幸村は何事もなかったよう慶次と談笑を再開した。ごくり、喉が鳴る。先程の相槌はもちろん佐助へ。
皆は軽く流したように思ったかもしれないが、違うことを本人だけが気付いている。

予鈴の前に余裕を持って解散、存外真面目な集団はそれぞれのクラスへ戻っていく。
わざと用意を遅くした佐助は幸村の袖を引き、屋上には二人が取り残された。
重箱を風呂敷で包み、紙袋へ戻す。一連終えたのは幸村で、佐助は正座して下を向いていた。
唇がやけに乾く、喉もからからだ。力を振り絞って口を動かす。

「あー、のさ、旦那」
「なんだ佐助」
「覚えてたり、する?」
「随分今更だぞ」

タイミング良く、予鈴が鳴った。
仰る通りに他ならない。あの春の邂逅が夢でないからこうしている。
だとしても、だとしてもだ。諦めて、むしろ逃げて向き合わずいた佐助には途方もなく圧し掛かる。

「うそだろーー…」
「聞かぬのならば答える道理もない。だいたい、お前が覚えていて俺がそうでないと何故決める」

崩れ落ちるように手を突いて呟くも、正論しか降ってこない。
これは怒っている、たぶん、物凄く、とてつもなく。

「いや、だって、さあ……」
「佐助」
「あんたおんなじ顔で笑うから…っ」

屋上のコンクリートを爪が引っ掻く。
かの日も、そう、地に伏して同じことをした。土が爪の間に入る感触を、今でも覚えている。


***


戦の合間の軽口なんて日常だった。
許し許された間柄は佐助には勿体無いを通り越した代物で、忠誠は偽りなく真実である。
庭先で槍を振るう主を枝から見下ろす。幾度も繰り返す光景も、いつまで続くか乱世の儚さ。

「俺様、身も心も旦那のものだから」
「当然だ」
「えっ」

まさかそんな答えが返ると思わず素の声が出る。
槍を止めた幸村はひとつ瞬き、真顔で。

「何だ不服か。自分で言っておいて」
「や、確かに本音なんだけど」
「そうであろう」
「はい」

有無を言わさず肯定された。
確かに己の口から出たものなれど、この重みは桁違い。
呆然とするうち、澄んだ声で。

「俺の知らぬところで果てるなよ」

混乱おさまらぬ佐助へ追い討ち。
それは命令だ、全てを縛る壮絶な鎖。

「無っ、茶言う……」

絶句した忍へ、主はただ朗らかに笑った。

打ち込まれた楔は抜くことならず、勝ち目のない戦いでも佐助は生き抜く。
己に灯火なぞ宿っているかは怪しいが、それを吹き消せるのは幸村のみ。
それよりも早く、彼の炎が尽きてしまったけれど。

腕の中、どんどん失われていく体温。
だというのに佐助を認めた瞳は安堵と共に、ただ優しく。


***


投げやりに座り込んだ姿勢は胡坐。肘を突き頬を支える姿はいつかにとてもよく似ている。
溜息と共に吐き出した。

「俺様に看取らせるとかさー、ほんと鬼」
「その後、どうした」
「追いかけたに決まってんでしょ、もちろん旦那を埋葬してから」

二本の指で首元へ当てる。腹を掻っ捌くより即効だ。

「誰にも言わずか」
「あんたの首をくれてやるほど心広くないんでね」

晒し首なんぞ御免こうむる。最期の特権は佐助だけのものだ。

「ま、優秀な優秀な部下に始末頼んだから、最終は人任せなんだけど」
「なんと」

生き残った忍隊の選りすぐりを伴ってある山の中へ。
一定の区画を見張るよう申しつけ、合図の烏を飛ばすまで近づかせない。
自分が死んだら即埋めること、ほとぼりが冷めたら然るべき相手には伝えること。
そして静かな木の根元、烏を飛ばすと同時に首を掻き切り、幸村の眠る土の上で生を終えた。
その後のことは知る由もない。

「二槍は戦場に置いてってあげたよ。誰か勘違いしてくれたかなー、焼けた跡凄かったし」

炎を纏いし虎の若子は、紅蓮の鬼として燃え尽きた。そんな逸話も悪くはなかろう。

一段落した話ののち、差し迫る現実。
すっかりサボってしまった午後の授業、自分はともかく幸村はいいのかと心配になる。
ちらり、視線をやれば、何故かぽんぽんと撫でられた。本当に何故だ。

「大儀であった、佐助」

頼もしい声音、やはり変わらぬ主の笑顔。
遅れすぎた労いにうっかり涙腺が緩みかけ、情けなく呻いた。


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