刷り込みの一種


何処の世に忍と肩を並べて茶など啜りたいなんて考える主がいるのか。
そう問うたところで、ここにいる!と全力で答えられてしまえば反論の余地はない、というかできない。
今日も今日とて己の仕えるべき主君のつまみ食いを叱りつけ宥めすかし、結局は何か与えてしまう一連の流れに微笑ましささえ感じている。
佐助は自分がこんなにも面倒見の良い人間だったとは思いもしなかった。

「若はほんと、放っておけないんだから」

おちおち目も離せない、何気なく呟いたその言の葉に、幼き主は敏感に反応し口を開いた。

「俺が一人前になったら、佐助は離れてしまうのか?」

幼心ゆえの率直なその質問に飲んでいた茶を思い切り噴き出した。




空は快晴、まさに鍛錬日和と言わんばかりに精を出す幸村を佐助は木の上で眺めるともなしに見守っていた。
声をかければ手合わせに引っ張り出されるのは分かり切っていたのでぼんやり寝転び、適当な時間で止めるつもりである。 腹が減れば勝手にやめることもあるのだが、入れ込んでいる時は身体の限界まで突っ走る性格だけに油断ならない。 止めてはじめて、そういえば空腹だなどと言い出すのだから呆れた体力馬鹿である。ひとつの事しか一度に行えないのだ。
三つ子の魂百までとも言うが、本当にそのまんま成長されるのは複雑な思いが胸中を巡る。
この真っ直ぐな主の長所であり短所こそが己の忠誠心に繋がるものであり、それゆえにもう少しどうにかならないかとも悩んでしまう。

「――俺様もつくづく、過保護だねぇ」

まるで本当に子供を持った親のような心境だ、と思う。
忍として育てられ、自身の生き様など決まっていたはずの己が子供に懐かれ、あやし、冗談を言って笑い合うだなんて考えたこともなかった。
目まぐるしく過ぎる日々は、自由奔放で無邪気な若君を虎の若子と呼ばれるまでに成長させ、傅く心も比例して高まっていく。 常の雰囲気こそ和やかなものであっても、ひとたび戦場を駆ければ燃え盛る覇気は敵陣を颯爽と切り開いた。影となり付き従い幾度も死線を潜り抜ける。

元服する少し前から、幸村は生活態度を自ら改め始めた。それは武士としての誇りはもちろん、人の上に立つということを幸村自身が重く受け止めたからに他ならない。
生来、生真面目であるからして礼儀はそれなりに弁えていたし、お館様である信玄に対しては幼少のみぎりから崩したことなどない。 ただ、佐助の前では年相応の甘えた部分が残っていたのである。
たまの朝寝坊――とはいっても幸村の起床時間は十分過ぎるほど早いので少々遅れても何の問題もない――へ佐助が声をかけたり、 旺盛な食欲についてくる多少の行儀の悪さを指摘してみたり、それは当たり前の風景だった。 だが、元服を迎えそして兵を指揮する今、そんなものはほぼ見受けられない。皆無とまでいかないのが幸村らしいといえばそうであるが。そしてそれを少し喜んでいる、自分。
さすがに齢十七にもなってあまり細かくあれやこれや言うのは気が引けるのを通り越して情けないが、手元にあった温かみが薄れてしまったような気がして寂しさが少しだけ積もっていった。

鍛錬を切り上げ、手ぬぐいで汗を拭き取るのを見ながら少しの感慨を含めてぽつり呟く。

「それにしてもあれだね、旦那もそろそろ一人前って感じ?」

口にした瞬間の幸村の切羽詰った表情は、佐助が共に過ごした年月の中で一度も目にした覚えのないものであった。

「俺はまだまだ未熟っ!お館様のご上洛が叶うその日まで常に精進し続ける所存!」
「あ、ああうん。そうだね、大将の天下取りが目的だもんね」

突然張り上げられた大声に、佐助の反応は遅れた。

「従って支えが必要不可欠であり、であれば俺はここまで邁進してこられたのだ!」

尚も叫ぶ幸村を前に、佐助の思考は追いつかない。

「えーと、俺もしかして褒められてる?」

ややあって小首を傾げて見せた佐助に、幸村は掴みかからん勢いで声を荒げた。

「だからっ…!だからだな!」

告いだ言葉は、耳を疑うような文字列であった。

「佐助が俺から離れることはまかりならん!」
「…………へ?」

――俺が一人前になったら佐助は離れてしまうのか?

脳裏で色鮮やかに再生される幼き我が主。目の前の必死な様子の本人がそれと重なり、唐突に全てを理解した。
この、直情熱血純粋人間は、まだまだ青かった己の戯言を本気で受け取ったばかりか特に否定も肯定もしなかった為に今まで持ち続けていたというのか。

「うっわ、信じられない」

口元を覆い隠し、俯き震える様子を見て幸村は憤る。

「わ、笑うとは無礼なり!佐助!」

ぎゃいぎゃいと騒ぐ主君を前に佐助はなかなか顔を上げられなかった。
見なくても分かる、きっと幸村の顔は真っ赤だろう。しかし己とて同じこと。 耳まで染まってしまったこの気持ちを、血が上った相手が気付くかそれとも耐えかねてその場から逃げてしまうのが早いか。
佐助には後者を願うので精一杯だった。


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