激励にて 武田信玄が幸村に陣頭指揮を任せた初めての戦。 入念な確認を重ね、報告も合わせて様子を見に来た佐助は主の姿を認めて声を掛ける。 「大将」 なにやら話し込んでいた様子だが、区切りよく立ち去った相手を見送ってからの絶妙な呼びかけは何故か不発に終わった。 「大将、大将ってば」 十分届く声音であったのに聞こえなかったかと心持地大きくしながら繰り返す。 あと数歩の距離まで間合いを詰めてようやく自分と得心した幸村へ呆れて腕を上げる。 「あんたが大将!」 伸ばす指で額を弾く。うっ、と大袈裟に額を押さえる相手が僅か不満げに。 「痛いぞ佐助」 「痛くしたんだよ。むしろ優しいほうだろ普段のあんたらに比べたら」 壁を吹っ飛ばす殴り合いを日常にしておいて、これくらいで文句を言う意味が分からない。 その原因が自分に対する甘えだということも分かりつつ、とりあえず頭の隅へやる。 そもそも不敬だとか今更過ぎる事柄は問題にもならなかった。 現在正すべき所は自覚の足りぬ主君の心構えである。 「他の奴が呼んだらちゃんと返事するくせに俺様だけ反応しないとか何なの。嫌がらせ?」 「そっ、そのようなこと!」 「大将がするわけないよねー。はいはいわかってますよ」 覗き込むように詰め寄ってみれば慌てた返答。軽く受け流しひとりごちる。 つい、と視線を寄越して口の端を上げた。 「若って呼び名から変えた時もしばらくそうだったもんね」 「ぐっ……」 押し黙る姿、脳裏に蘇る元服直後。もはや一人前となった主へ傅いてから呼び名を変えた。 身が引き締まる思いだ、なんて言っていた目の前のお人はしばらく居心地悪そうな視線を向けてきたものだ。 「昔の事を持ち出すでない」 「なぁに?恥ずかしい?」 勢いの弱まる相手に笑みを深め、語尾を上げる。 途端、不服と拗ねの混ざった眼差し。 「俺の未熟がそんなに面白いか」 瞳を眇めてもう一度弾くのはもちろん額、次いで指を当てた中心を押してやる。 「心配してんの。まぁ俺も旦那には甘い自覚あるけどさぁ」 実際、様子を見に来たのは信玄からのお達しもあるが佐助自身の過保護が半分以上。 やれやれと口にした言葉の一部、流れて落ちたものにすぐさま気付く。 「あ」 「佐助」 しまった、の顔と驚いた顔。見合わせるのは一瞬、逃げるが勝ちの精神で影に潜る。 「はーい、それじゃ俺様は持ち場に戻りますねー」 「こら待て!待たぬか」 反射で掴まれた手首の力は強い。こういう反応はさすがだと褒める訳にもいかぬ。 わざとらしく胡乱げに相手を見た。 「なによ。この状態で止まるとか間抜け以外のなんでもないんだけど」 「やめぬならいい」 「へ?」 揶揄への意趣返しを覚悟すれば、降ってきたのは嬉しそうな声。 ぽかんと口を開けた佐助へ、すっきりした表情ではっきりと。 「戦場での決まり事なら致し方なし、と言ったのだ」 訳の分からぬまま瞬くのも構わず掴んだ腕を解放し、頼もしく言い放った。 「出陣まで数日だ。奮えよ、佐助!」 「……仰せのままに」 傅く仕草で今度こそ影へ潜る。 常の調子を取り戻した主の指示が方々へ飛ぶのを聞きながら屋敷の反対側へ抜けた。 部下へ片手で合図を送り、職務を果たす。 「普段は呼べって言いたい訳ね。まったく……」 瞬時に取り払われた不満の色が安堵と喜びに変わるのを見てしまった。 つくづく甘い、本当に甘い。釣られて口にした程度じゃ拭えないものがある。 「我侭な主様だこと」 |