Shut!


昼休みまであと十五分。
午前の疲れも空腹もピークに達しているこの時間、生徒の集中力は皆無に等しい。
英単語を復唱する声もそぞろ、例文の和訳を板書する手も急いてくる。
時計の針に向かって早く進め進めと祈る教室の空気、は先生へ正しく伝わって僅か苦笑を引き出した。
そんな中、机へ硬いものが落下したような鈍い音が響く。
一斉に皆が振り返る、窓際の三番目で突っ伏す人物。
額を思い切りぶつけた越前リョーマは眠そうな顔でそこを押さえた。


「わ、真っ赤になってるよ、リョーマくん」

あのあと爆笑に包まれた教室は授業どころではなくなって、ちょうどキリもいいからと十分前に終わってしまった。
もちろん、チャイムが鳴るまでは外に出てはいけないけれど、思わぬ救世主に拍手が沸き起こったのも致し方あるまい。
名誉の負傷とでもいうべき額をそーっと見やり、カチローが心配そうに言うが当の本人は前髪でさっさと隠してすまし顔だ。痛くても痛いと言わない意地っ張りを知るテニス部一年トリオの視線が交差する。

「リョーマくん、今日は購買?」

鞄を持ち上げ蓋を開けるタイミングでカツオが一言。
ぱちり、瞬いたリョーマへ一拍置いて堀尾が続ける。

「なら、ついでに保健室寄ってこいよ、通り道じゃん」

はいはい、いってらっしゃい、とばかりに教室を追い出され、リョーマは弁当の入った鞄ごと廊下へ放流。訳も分からず歩き始めてから、三人の気遣いに息を吐いた。

「……お節介」

どうせ飲み物は購買で買うつもりだったし、痛いのも確かなので保健室へ赴く。
冷やすだけで終わるにせよ、行かなかったらきっと煩い。
保健室のある棟は三年生の教室に近かった。リョーマだって中学の時より伸びたとはいえ、高校生はまだまだ成長期。自分より上背のある人の間をすり抜けていくと一際大きい相手が目に入った。

「やあ、越前じゃないか」
「乾先輩」

挨拶から当たり障りのない会話をするうち、めざとく見つけられた額の赤。
お大事に、の後に付け加えられたのは謎の情報。

「保健室なら手塚がいるかもしれないから何かあったら頼るといい」

なんで?と問いかける前に相手の口がまた開く。

「休養日だから、今日は」
そう言って眼鏡を押し上げ立ち去ろうとする先輩を、説明を求めて引きとめた。


「失礼しまーす」

ガラガラ音を立てて引き戸を開けたものの、誰も居ない。
ちらりと入口へ視線を戻したところ、不在中を示す札を発見。
それなら鍵なり掛けて行けばいいのに、肩透かしを食らった気分だ。
後ろ手に戸を閉め、室内を見回す。
今更じんわりと痛みを感じ出す額へ掛かる髪をくしゃりと掴む。

「絆創膏程度ならまだしも、勝手に使って良かったっけ。てか湿布って顔に貼れるっけ……」

薬剤棚を覗き込みながら呟いていたら、背後から声がした。

「また何をやったんだ」

振り向けば、眉間に皺の寄った手塚がベッド脇のカーテンを押し開けて睨んでいる。否、仏頂面はもともとか。
よく見ると微かに目がうろんげである。睨んでいるよりは確認している感じ。眼鏡かけてるんだから見えいてれば正解だろうに。

「部長、いたんだ。寝起き?」
「というより寝るところだった」

トコトコ近づく間にカーテンが開かれ、上半身起こしただけの手塚と対面する。相手は眉間を二、三度押さえると改めて向き直った。

「それで?」
「俺の台詞だが」

説明しなければ解放されないと悟ったので渋々経緯を話す。案の定、呆れたような息と共に吐き出された余計なお世話。

「あまり頭を打つと脳細胞が死ぬぞ」
「真顔の部長に言われると恐怖しか感じない」
「それは何よりだ。お前はもう少し危機感を持って日々を過ごせ」

始まってしまった説教に長くなる気しかせず、近くの椅子を引っ張ってくる。そもそもお前は、とか聞こえてくるのを流しながら、先程出会った先輩の言葉を思い出していた。

「しんどいの?」

脈絡なく放たれた一言に手塚はしばし停止するが、保健室で寝ている現状に対しての質問だと汲み取って緩くかぶりを振る。

「気疲れしただけだ」

休養日、の言葉が頭を回る。乾の台詞が本当なら――彼は胡散臭いが無意味な嘘を言ったことはない、真実に掠る程度のぼかしは入れてきたりするけれども――腑に落ちない点がいくつもあった。

「今日、誕生日でしょ」
「そうだ」

またもや唐突な質問に今度は驚くことなくさっくり返答がきた。まさにただ答えただけ。

「なんで騒がれてないの」

聞きたいのはやはりそこだ。生徒会長兼テニス部部長という多忙極まりないこの優等生は中学の頃から凄まじいほどに女子に人気がある。この無愛想の化身の何がいいのか分からないが、その誕生日に何も起こらないのは逆に不気味だ。

「隙を作ると後が困るからな」

首を傾げて見せたリョーマに対して手塚はぽつぽつと語り始めた。
遡ること数年前、中学生の手塚は真面目だった――今がそうじゃないという訳ではなく。
誕生日プレゼントやバレンタインのチョコレートはきちんと持ち帰ったし、記名があれば返事もしていた。
そうすることによって、結果贈られる数は増えていき、対処しきれなくなってくる。
律儀な手塚は途方に暮れ、高等部に進学する段になってある日突然に吹っ切れた。

――受け取らなければいい。

上手くかわしてみせる友人や理屈っぽい仲間には「今更気付いたのか」と呆れられたものだが、これが最善だと思い込んでいる者にとって忠告は意味を成さないことが多い。結局、自分で思い知るしかないのだ。
そうと決めた手塚の行動は徹底していた。面と向かってくれば必ず断り、人づてや集団も丁重に対応。
直接が駄目ならばと机や鞄に忍び込ませてきたものについては、少し悩んだものの、持ち帰らず放置する。
もちろん、それではそこかしこに物が溢れてしまうので、とった手段は強行的。
職員室に「落し物です」と届け出たのだった。
手塚が言い張ってしまえばそれは事実となり、職員室には手塚宛の贈り物が集結することになった。
贈り主が分かる物は担任を通じて返却される、分からないものは一定期間集めたのちに処分。非人道的、最低、そんな言葉も届いたが意に介することは全くなかった。相手は一対一でも手塚からは一対多数なのだから。
最初のうちは諦めない、めげない女子も季節が進むごとに減っていく。
高二の終わり頃には、「手塚国光には贈り物をしてはいけない」という不文律が出来上がっていた。
それでも来る者、わかってない者がいないことはないが、本当にごくごく一部である。

「おかげで今年は今までになく過ごしやすい学校生活となっているな」
「凄まじいね、ていうか結構ひどいね部長」
「気遣いの安売りはもうできん」
「売り切れなんだ」
「思いやりのない人間みたいに言うな」

憮然とする部長にからからと笑って返す。
過ごしやすいなんて言いながらも当日に保健室に篭るということは未だ振り切れていない証拠である。
真面目すぎるこの人は良心の呵責に自分の精神的疲労を重ね合わせ、ある種トラウマにしてしまっているのだろう。
なるほど、それなら確かに休養日だ。手塚国光にとって学校で祝われることがタブーなのかもしれない。
いっそ休めばいいのに。思うだけで言わないでおいた。

「じゃ、嫌がらせして帰ろっと」

聞くだけ聞いて辿り着いたあんまりな結論に眉間の皺が深くなる。

「……お前のそれは桃城に似たのか菊丸に似たのか」
「大穴の不二先輩という可能性」
「地だな」

即答で返すあたり、手塚も十分いい性格だとリョーマは思う。
丸椅子から立ち上がって覗き込み、流暢に紡ぐ。

「Happy Birthday」

一瞬、虚を突かれたように固まった手塚が、やれやれとばかり肩を竦める。

「お前たちに祝われて迷惑なはずがないだろう」

複数形でまとめる扱いからして、少なくとも三年生からはこの言葉を頂いていると見た。
別に本当にダメージを与えられるなんて思ってはいないけれど、全肯定されてもむず痒い。

「部長、けっこう恥ずかしい人だよね」

知ってたけど、と口の中で呟いて、いま考えたように指を立てる。

「じゃ、俺と対戦する権利あげる。チケット作ろうか、肩叩き券みたいに」
「それを喜ぶのはお前じゃないのか」
「よし、二ヵ月後の俺の誕生日はそれでよろしく」
「越前」

いよいよ呆れでもって視線を細める相手に、リョーマこそ瞳を笑みの形にして言い放つ。

「部長の未来、この先もずっと祝ってあげるから、全部ちょうだい」

ポーカーフェイスが完全に崩れた。目を見開き、凝視する様から俯いて、ぽつりと一言。

「……とんだプレゼントだな」

眼鏡を押さえようとする指がどこかぎこちない。

「まんざらでもないんだ」
「少し黙れ」

照れ隠しめいた早口にリョーマが笑う。
疲れても呆れても怒っても喜んでも、けっきょく皺の寄る相手は存外簡単である。

生徒がはしゃぐ、穏やかなる昼休み。
勝ち誇った年少者のターンは空腹の虫が鳴くまで続いた。

戻る