反転 呼ぶ声がする。先刻から何度も何度も聞こえてくるそれは、今の自分には雑音以上に鬱陶しいものに相違ない。 近づくにつれて段々とトーンが下がり、やがておそるおそるといった風に様変わりする呼びかけ。 「柳生、怒っとる?」 「言わなければ分かりませんか」 答える間さえ惜しく、早足でひたすら前へと進む。 相手より荷物の少ない自分はそれだけで随分距離を開けることができる。 「ちょ、まっ!やぎゅ!まて、まてって!」 焦った声がスピードを上げて隣に並んだ。視界の端に映る銀色を見るのも煩わしく、ただただ歩くことに終始する。 テニスバッグを2つ持って走ればさぞかし動きにくいだろうがそんなのは知ったことではない。 会話のきっかけにと荷物の近くに陣取った彼を見た瞬間、癇に障ったので無視したまでだ。 「すまん、ほんますまんかった。謝る、ほんまこの通りじゃ」 「何回聞いたでしょうね」 「もうせん、絶対にせん、俺が悪かった」 口を引き結んで見向きもしない。第一、何で怒ってるのかさえ彼は厳密には分かってはいないのだ。 私が怒るから謝る、そしてまた繰り返す、謝る、永遠のループ。 彼の信条と私の信条が違うのは致し方ない、だがそれでも許せないものはあり、譲れないものはある。 根本的な解決が望めない以上、今の荒れた精神状態では罵り言葉がでるのが関の山。 「柳生、なぁ柳生」 だというのに、追いかけてくる相手は寂しげな声でなおも言う。 「俺、お前と喋りとうよ…」 反射的に足が止まった。 込みあがる不快感と怒り、感情に連動してしまう。 「やめてください」 切り込むような強さで口にしていた。 「私が悪いような気分になってきます。大体そんなに落ち込むくらいなら自らの行いを改めてください。 そもそも貴方は学習という言葉をご存知ですか?どうせ分かっていて繰り返しているのでしょうけれども。 振り回される私がどれ程迷惑していると思ってるんです」 息を呑む気配にも構わず、相手に向けて浴びせかける。 そうだ、どうせこうやって繰り返すことこそを楽しんでいるんだ、 いつもいつも自分が傷ついた子供のような顔をして機嫌を伺って、 その行動がペテンだと、思ってしまえばそれで済んだ。 「私だって貴方と気まずいままでいたくはありませんよ」 零れ出た言葉に我に返る、何を言ったのか把握できない。 急いで踵を返してその場を去った、ぽかんとした表情の彼など私は知らない。 しかし相手はしぶとかった。地面を蹴る音にまずいと思ったのも束の間、少々混乱していたせいもあって 反応が遅れてしまい、まんまと後ろから抱きつかれてしまったのだ。 「ちょっと、仁王くん!」 引き剥がすのに必死になるものの、抱きしめる腕がことのほか強く苦戦する。 「あー………良かった」 心底安堵したかのような口振りで、人の肩口で溜息をつくのはやめてもらえないだろうか。 「柳生に嫌われたら生きていけん」 離してください、言いかけた口が途中で止まる。 なんなんだこの男は。そんな言葉をしみじみと、至近距離で言うものではない。 この温もりも、耳に届くものも、全てが胡散臭いと分かっているのに。 「だから貴方は嫌なんですよ」 振り絞るように、呟いた。 「やぎゅ、こっちみんしゃい」 「お断りします、まだ怒りの方が大きいので。それよりも離して頂けますか」 大変不本意ながら根負けしてしまい、ゲームセットを迎えたやり取りは何故か終わらず、 中途半端に人気がない学校の裏庭なんて笑えない場所でかれこれ数分経過している。 「嫌じゃ。相手にしてもらえんかったぶん補給しとる」 「TPOを考えて下さい」 「誰もおらんかったらよかね?」 「揚げ足を取るのはやめたまえ」 「ペテン師じゃし」 「開き直らないでくれますか」 いい加減、辛抱ならないので力任せに拘束を解いた。こちらが本気だと分かると即座に力を緩めてきたので お互いに痛くはない。何だか殊更気分が悪くなったのは気のせいだろうか。 一応開放はしておきながら、つかず離れず上機嫌でこれでもかと纏わりついてくる。どうでもいいから鞄を返してください。 「さっきまでしおらしかったくせになんなんです、貴方」 軽蔑の意も込めて視線を向けるも、にこやかに受け止めなんの悪気もなく言い放った。 「柳生が相手してくれたら、それでいいけぇ」 まったく邪気のない、子供のような笑顔。 私は世界が瓦解していくのを感じていた。 とんでもないペテンにかかったものだ。 |