攻防戦


「柳生」
「はい」
「やぎゅ」
「はいはい」

繰り返される呼びかけと返事はもう何度目か。ぽつりぽつりと不規則にかかる声に反射のように返事をしてしばらくのこと。 手の動きは淀みなく、書面にはつらつらと文字が綴られてゆく。 途中、思案の間が入りはするものの返事だけは的確にリズムを刻む。 躊躇など一切なく、ただ平静な声が響くのみ。

机の上に広げられた学級日誌、本日の日直は柳生であった。生真面目な彼は一日の授業概要や感想を丁寧にまとめ、空欄を埋める。 前の席に居座るのは、先程から妨害のように呼び続ける相手。 引いた椅子の背凭れを抱えるように座り込み、のっぺりと見つめていた仁王がふいに身を乗り出す。 机に肘をつき、囁く声音で耳元へ。

「好いとうよ」
「知っています」

だがそれは思わぬ速さで断ち切られる。
平坦に紡がれた台詞に気を悪くするでもなく、緩いテンポで仁王が喋る。

「冷たいのう」

笑いさえ含んだその言葉も、続く出来事に掻き消される事となった。

「自惚れていますので」

仁王の表情が固まる。 伏した目線はそのまま、書き始めた当初から一度も顔を上げず返答だけを寄越すその口が、 生真面目であるくせに間違った融通が利いたりするよく分からない自分の相方が、 予想の範疇を超えた発言を投下してきた。それはもはや攻撃。

「何か?」

今までさくさくと返ってきた相手の声が途切れたので、疑問を感じましたと言わんばかりの態度。
やはり目線は日誌のままに。そろーっと元の位置におさまり、数秒悩む。

「いま、凄いことを言われた気がするんじゃが」

おそるおそる、噛み締めるように問いかけるも、

「仁王くんが照れるところではありませんよ」

一蹴されて意味がない。というかおかしい、何かがおかしい。

「じゃあ照れてみんしゃい」
「遠慮します」
「こら」
「何か」

ツッコミはスルー、不機嫌を滲ませても再度スルー。 何かとてつもなく不毛な争いをしている気がしてきたが、それ以上に納得がいかないものが多すぎた。 両肘を机の上に乗せ、見上げる位置で覗き込む。

「柳生は俺には紳士じゃなかー」

視線は合わない。角度のせいか瞳も見えない。

「貴方も詐欺師ではないと思いますけどね」

むしろ今の状態は駄々っ子レベルですよ。 切り込みは相変わらず鋭く容赦がない、とことんない。
しかしそんなものに負ける殊勝な根性を仁王は持ち合わせていなかった。

「ほうか、お似合いじゃの」

さっきまでの態度はどこへやら、へらりと笑って肘に顎を乗せる。

「言っていて恥ずかしくないんですか」

微動だにしなかった目線が動く。光の角度が変わり、瞳が覗いた。
まっすぐに見つめ返し、きっぱりはっきり即答する。

「全然」
「…そのようで」

ようやっと見たな。ふふん、と得意げな様子に、柳生は深々と溜息を。
眼鏡のブリッジを押さえ、ちらり仁王を見遣り、心持ち早口で呟く。

「終わったらお相手しますから」
「おう」

答えた声は、たった二文字だというのに酷く満足そうで弾む音色。 そのまま、また日誌を書き始めた柳生の前で、仁王は机に凭れっぱなしの腕に頬を乗せ目を閉じた。

再び漏れた音は、深い溜息。

「私もまだまだですね」

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