響く音、やむなし


意識の浮上と気配の感知はほぼ同時だった。
というより、明らかに起こすつもりのその相手は土方の肩あたりを軽く揺さぶる。
次いでくるだろう呼び掛けがこないことへ疑問が浮かんだ矢先、鼻先に当たる柔らかい感触。
一瞬の動揺の間に気配は移動し、額にも瞼にも触れる温かさ。

「総司!」

叱り付けて目を開くとすぐさま離れて見つめる位置。
身を起こして溜息をついた。

「まったく……起こすなら普通に起こせ」

障子から届く光はまだ弱い、いつもより一刻は早いだろうか。
まだはっきりしきらない頭を掻いて総司を見るも、言葉はない。

(おかしい)

常なら機関銃のようにあれこれ話し掛けてくる唇が動かなかった。
第一、土方を呼びもしないのだ。
起こすにしろなんにしろ、総司がその単語を発するのは基本である。
訝しげな視線に気付いた相手は少し困ったように眉を寄せ、指先で喉を示す。
土方が目を瞠った。

「声が出ないのか?」

こくり、と静かに頷く総司。土方は一瞬詰まり、やがて布団から動いて相手を抱き締めた。

まだ薄暗い部屋で明かりをつけて筆談を始めたところ、総司は言いたいことをまとめてきていたようですらすら簡潔な説明がなされる。
文字を読みながら土方も思い返す。乾燥した空気で火事騒ぎの多い昨今、喉をやられる隊士も幾らかいた。
最高愛獲である二人はもちろん人一倍気をつけてはいたが、体質というものもある。
少しばかり調子を崩していた総司はいがらっぽさを訴えており、大事を取って歌の稽古は休ませていた。
が、夜の見廻りの最中で起こった放火事件。犯人はすぐに捕まり、消火も早かったため延焼も抑えられたが
率先して避難を誘導した総司は煙を思い切り吸ってしまった。
元々弱っていたところに重なって、起きてみれば声が出ない。

――一応、出ることは出るけど、ちょっとひどいから。

筆先が綴る文字を受けて、総司の頭へ手を伸ばす。
ゆっくり撫でる仕草に相手が柔らかく微笑む。次いで額に唇を寄せた。

総司の療養が決定すると、この機会に局長も休んでくださいと隊士一同から発せられた必死の訴え。
なんだかんだ土方を補佐する一番の功労者であり、諌められる唯一の存在でもある。
つまりは、総司がいなければ休まなくなるから治るまで戻ってくるなということだった。
勝老中のはからいでそう遠くない屋敷の一つを借り受け、短期休暇が始まる。


***


声が出ない以外は元気な総司であったから、降って湧いた休みともいえた。
結局、いくつか仕事を持ち込んでこなす土方を手伝うのも自然な流れで、日常と相違ない。
机に広げた書類の束、目線を走らせた資料を拾ってはすぐ手渡してくれる。
きりよく終わらせて茶を啜る中、目が合えば嬉しそうに総司は笑う。

たとえばここで普段なら、あれこれ喋るのを聞いて頷けばよかった。
言葉がないのが気まずくはないし、傍に居るだけで落ち着くのも事実だ。
とはいえ、総司が話さないことに違和感しかない。
身体を気遣うお決まりの言葉をかけたのち、ぽつぽつと何かしら語る土方へは筆先が答えた。
総司の持っている筆は桂が改良した携帯に適した作りのもので、乾燥を防ぐ蓋がついている。
使い捨てだが、いちいち墨をすらなくてよいそうだ。今回の休暇前に偶然会い、譲ってもらったらしい。
今度何か礼をせねばならない、ずれていく思考を遮って袖が引かれる。
見れば、いつの間にか近づいた総司が覗き込んでいた。

「どうした」

じっと見つめる相手に呼びかけるも、当たり前だが返事はない。
瞳に乗る感情は拗ねではないだろう。それならもっと分かりやすい。

「訴えたいことがあるのはわかる、しかし細かくは汲み取れん」

降参の意を示すと同時、笑う息が漏れて聞こえる。
思わず視線が険しくなれば、手近な紙を引っ張って素早く綴る。

――ごめんなさい、ちょっと遊びました。

書き付けた文字に息を吐く。やはり総司は総司だった。
しかし、文字はそこで終わらず二行目へ続いていく。

――土方さんがたくさん喋ってくれて嬉しいです。

悪戯っぽく、しかし幸せそうに笑う総司に胸を撃たれたような衝撃を受ける。
眉間に皺が寄り、重々しく吐き出した。

「お前の洞察に甘えていたのがよくわかるな……」

総司はいつも先回りして会話を牽引する。
表情の固い土方への茶化しもその能力あってこそのもので、だからこそ成り立つのだ。
そして呼ばれるだけで続く言葉が察せるほどには二人の付き合いも長い。
しかし、音がなければこんなにももどかしい。

「早くお前の声が聞きたい」

漏れ出る本音に総司が筆を取り落とし、ころころと転がった。
すき、と動く唇。潤んだ瞳。衝動的に抱き寄せる。

「俺もだ、総司」

耳元へ囁き落とす言葉に普段はあまり口にしない三文字も加えた。
うっとり閉じる瞼へ誘われて唇を重ねる。
触れるだけの口付けは甘える総司の吸い付きから食む動きに変わっていく。
ちゅ、ちゅ、と響く音が理性を焼きかけて慌てて乱暴でない程度に剥がす。

「こら、総司」

嗜める呼びかけはしかし、蕩けた瞳に迎えられた。

「う、」

息を飲み、全神経でもって雑念を振り払う。

「駄目だ、喉を痛めているのに酷使するような」

ふふっ。息だけで笑う総司が堪え切れぬ様子で肩を震わせる。
おかしくて仕方ないとでも言いたげな相手にぽかんとしていると、放り出された筆を拾った。
蓋は閉まっていたので畳は汚さずに済んだらしく、新しい紙を一枚。
会話用に小さく切ったそれは机近くに積んである。話しやすくするための工夫だった。
訳が分からず文章を待っていると、意味ありげに口角を上げて紙を掲げる。

――困るくらい激しくしてくれるんですか。

「!!」

絶句して固まった土方にまた含み笑い。

「お前がいつも声を……いや悪いわけではなく」

なんと返していいか分からずしどろもどろになるのを置き去りにして総司がまた筆を動かす。
この会話の間が更に居た堪れない。

――だって気持ちいいってわかって欲しいし。

「っっ」

――僕の顔と声、好きでしょう?

にっこり微笑むその艶やかさ。
わざわざ二枚に分けて順番に出してきた攻勢が憎らしい。
そういう奴だったと頭痛を覚えながら口を開く。

「煽るんじゃない」

必死の思いで搾り出した答えには、甘えたキスが幾度も降ってきた。


***


「土方さん、土方さん、土方さん」

復帰後、いつにも増して上機嫌な総司が土方を呼んではまとわりつく。
あれだけ熱烈に望んだ手前、邪険にも出来ず好きにさせている。
結局、療養中は唇以上の手は出さなかったのは語るまでもない。
総司も快復したほうが乗り気になると分かればあっさり引いた。
喉が治って数日後、それはもう濃密な時間を過ごしたおかげで今に至る。
完全復活、加えて土方の本人でさえ当たり前すぎて気付かなかった想いまで得た総司は絶好調だ。

「せっかく治ったのに、もっとしてくれないんですか」
「調子に乗るな」

意味のない主張だと理解していても、言うしかなかった。

「俺が枯らせないとは限らん」


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