常備薬でお願いします
今日は厄日だった。 どのくらい最悪かというと朝に階段を上がった瞬間にふくらはぎが引きつって手すりに捕まって体感時間10分ほど立ち往生したり、 手を洗えば思い切り袖を濡らしてしまったり、プリントアウトした資料は変換どころかタイプミスして意味のない小文字が紛れ込んでしまった。 文章の途中ならまだしも見出し的な太字の部分で「〜におkる」とかネトゲの略語みたいで居た堪れない。 疲れてるんだろう気にしなくていいよ、な周りの気遣いがまた辛い。主に自分の不注意による地味なやらかしほどヘコむものだ。 原因は季節の変わり目についていけなかった中途半端な体調不良及び寝不足で、後者の割合がだいぶある。 寝つきが悪いくせして起床予定30分から1時間前に目が覚めるのはじわじわと体力を削ってくれた。 もちろん日中は眠い。仕事柄、規則的なようで不規則であるし、倒れ込むように家で寝たことだって少なくはなかった。しかしリズムが狂ったところで無理やり休息をとっても焼け石に水、何か根本の解決策はないものかと溜息を吐く。 かろうじて夕方といえる時間に帰宅。考えながら取り出した鍵で玄関へ入り、靴を脱いだあたりでどっと疲れが押し寄せた。ふらふら歩いて廊下を抜ければダイニングキッチン、買い物袋を机に置こうとした瞬間、手から滑り落ちる。ぐしゃり、嫌な音がした。おそるおそる視線をやれば一番上に積んでいた卵のパックが傾いて机へ直撃。目測で3つは割れている。 ただでさえ高くないテンションが一気に下がった。 「鬱だ死のう」 「なんだと」 「うわあああああああああああ?!」 限りなく小さく低い呟きが不機嫌な声に拾われて思わず慄きながら後ずさる。 横手から現れたのは全身のうち8割は白い大男。怖い、これは怖い。薄暗い部屋に白い人影はガチで怖い。 だが幽霊なんかより洒落にならない相手であることが一番の問題だ。 「ど、どうして君、ここに」 叫びにも微動だにしなかった侵入者は装飾のついた帽子の唾を一度触ると睨みつけてくる。 「てめーが寄越した鍵だろーが」 そうです、渡したのはぼくでした。 更に重ねて予測が正しければ今ちょっと機嫌が下がった理由は何故と問うたことよりも帰宅早々放ったネガティブ発言の可能性が高い。 あの五十日の旅から奇跡のような生還を遂げたぼくは生死の境をさまよった。 見事完治し、日常生活も問題なく過ごす傍らに、文字通り物凄く近くに付き添ってくれたのが承太郎である。 素晴らしい友情だなあ、と暢気に構えるには熱烈な甲斐甲斐しさだとも自覚はあった。あったとも。 それでも確定されない限りは突付くのもどうだろう、なんて他人事みたく考えていた矢先に爆発した。 特に意味のない、軽く口から零れる言葉たち。疲れた、めんどくさい、どうでもいい、そんな投げやりな単語は誰でも覚えがあるはずだ。 変わらぬノリで言った途端、両肩を揺さぶるように掴まれた。 ――……二度とそんなこと言うんじゃねえ。 折りしも、復帰してから一年の日付。確かに気遣いが足りなかった、と今ならば思う。 その時はただただ、切羽詰った相手の瞳に固まるばかりだったから仕方ない。 消えたい、しにたい、が禁止語句として思考に登録されてそろそろ十年だ。 当初ほど慌てふためく様子はなくとも、似たような発言にプレッシャーを送られ続けて今に至る。 「いや承太郎、疲れていただけで本気ではないし、つい口から出ちゃったというか」 とりあえず並べた言い訳はしかしスルーされ、伸びた手が頬へ触れ指先が目の下をなぞった。 「……隈があるな」 優しく撫でる感触に、そもそも顔色の話だったと今更過ぎる納得をする。 頭が働いてなさ過ぎて自分の状態を忘れていた。女性は顔色も化粧でカバーする術を持っているのが羨ましい。 男もTPOを円滑に進めるレベルでのメイクをしたほうがいいんじゃあないだろうか。最も、現時点で口走っても、寝ろの一言で済まされるが。 頬から伝わる体温を受け、そういえば久しぶりな事実も思い出す。いきなり現れすぎてその思考が飛んでいた。 おもむろに掌を重ね、頬をすり寄せて瞼を閉じる。温かさに溺れきらないうちに柔らかく外して押し退けて目を開く。 「卵が割れてしまってね、今日は親子丼にしようかと思うんだ。食べていくだろう?」 「花京院」 口元だけで笑うと責めるような声で呼ばれたが、無視して割れた卵の救済にかかる。 ひび割れ程度で、殻が黄身とコラボレーションするのは免れたようだ。丼なら仕上げになるから適当な器に移す。 無事な卵と汚れたパックを洗って、冷蔵庫とゴミ箱へそれぞれ収めた。 冷やすべきものはもう買ってなかったはず、一応ビニール袋の中身を確かめてミッションコンプリート。 所在無く立ち尽くす承太郎へ再度歩み寄り、頭に乗ったものをひょいと奪う。 「ほら、室内では帽子を脱ぐ」 あっさり手に入ったことがおかしくて、よく見えるようになった憮然とした表情を覗き込む。 口元から笑いが漏れて拝借した帽子で口元を隠した。 「ふふ、」 「花京院」 もう一度呼ぶ音は心配が含まれていて、意識的に目を細める。 「大丈夫だよ、大丈夫。確かに疲れてはいたけど、君に会えたらどうでもよくなってしまったから」 そう、空条承太郎を目にした瞬間、他の思考などどこかへ消えてしまった。 きっと着いたのはタッチの差。だって彼が居たと思われるすぐそこのリビングには見慣れた鞄。 そこそこの大きさの荷物から導き出される答えはひとつ。 「空港からそのまま来てくれたしね」 つい緩んだ表情筋がしばらく浮かべていなかった笑顔を自然に相手へ向け、承太郎はバツが悪そうに視線だけをずらした。 「照れ隠しの味方はここです」 帽子を顔の前で振ってみせると、反対側の腕を引っ張られる。傾いだ身体はそのまま彼の胸元へ。 危なげなく受け止めてもらい、見上げる形で視線が重なる。 ああ、そうか。ようやく無意識で欠けてたパズルのピースが嵌っていく。 ぼくには足りなかったのだ、彼が。 「甘やかしてもらえるかな」 「等価交換だ」 手に持ったものを机に避難させ、両手で強く抱きついた。 「よろこんで」 *** 行為はとても珍しいことに一回で終わり、完全に体力と気力を使い果たして眠りに落ちたぼくが目覚めたのは翌日の朝だった。 目覚ましも含めて携帯で済ませてしまっているから時間をすぐさま確認できないが、10時前後だと当たりをつける。 起きた身体の状態でなんとく睡眠時間を把握できるのは日頃の不摂生のたまものともいえた。全く持って威張れないので口外しない。 特に、すぐ傍でまだ瞼を閉じている男に知れたら後が怖い。それはさておき、自分が先に起きるのも珍しかった。 大概が動けなくなるレベルでやらかしてくる承太郎であるから――なかなか時間が取れない前提なので流されてしまう落ち度もある―― 普通に寝たんでない限り八割がた先に活動するのは彼になる。 余程疲れていたんだろうなあ、と思いつつ若干だるいくらいで活動できる状態に頭の下がる気持ちだ。つまり、処理がされている。 先に落ちたぼくを清めた上で腕でホールドして眠るんだからもはや天晴れだよ、すごいよ承太郎。ここまでのハイスペックに誰がした。 だいだいこの男、本当に空港から直で来てしまったのか。報告やらなにやらがあるんじゃないのか、自由に生きるにも程があるぞ主人公気質め。 さすがにいつもよりは弱い力の腕の囲いは簡単に抜けられそうだったけれど、寝顔を観察できる機会もまたとないからまじまじと覗き込んでみる。 彫りの深さは明らかに日本人離れしていて、モノクルもきちんと嵌まりそうだ。 あれかっこいいアイテムに思えるけど、のっぺりした顔じゃつけられないんですよ。 目を閉じると際立つが睫毛も濃いな。美術の石膏像さながらの目鼻立ちに改めて感心したあたりで前触れなく瞼がひらく。 「なんだ」 「やっぱり起きてたか」 まだ眠たげな色を乗せた翡翠が結びきらない焦点でこちらを見る。 「おめーほどじゃないが眠くてな」 翻訳すると、意識はあったが眠さの方が勝っており目を開ける気にならなかった、になるだろうか。 「もう少し寝てていいよ」 息を吐くように笑いかければ、彼の利き手が頬まで上がり、親指で目元を柔らかく撫でた。 少しだけ視線が細まったのは一晩寝たくらいじゃ消えない隈のせいかな。 「すぐには消えないかもしれないが、よく寝たから」 ね、と言い聞かせながら自分の手を重ねる。お互い寝起きだからとても温かかった。 そして素晴らしいタイミングで腹の虫が小さく鳴った。もちろん二人分。 「さすがに空腹かな」 喉の奥から生まれた笑いが肩を震わせ、きっかけよろしく上半身を起こす。 もう拘束の意味を成さない腕の妨害はなく、ベッドから滑るように足を下ろした。 「おい、」 大丈夫か、を含んで掛けられた言葉に軽く後ろ手を振る。 「珍しく程々にしてくれたおかげで動けます」 ぐ、と僅か言葉に詰まったような気配があったが、振り向かないであげたのは情けである。 卵を冷蔵庫へ入れた自分の判断力にグッジョブと言いたい。 炊いて一晩経った白米と冷凍庫の保存分を使いきり、朝からがっつり作り上げたのは他人丼。 よくよく確かめたら家にあった肉は鳥じゃなくて豚だった。ツッコミも入れずレンゲを手に取る承太郎との朝食は実に平和で静かに進む。 いや、親子丼じゃなかったのか、とか言われても答えようがないんだけども。 「今日の予定は?」 「休みだ」 「そうか」 君がそう決めたんなら、そうなんだろうな。 本当は連絡事項とか済ませての来訪だと素直に信じきれないぼくがいる。 何せ前科が前科だ。いつだったかそう、快復してから初めての長期フィールドワークからの帰国時、ちょうど携帯の充電が 切れていたのが悪かった。家に居たから良かったものの、扉を壊さんばかりの殺気を放った承太郎は完全にホラーだった。 むしろアクションゲームに出てくる絶対倒せないから逃げるだけの出会ったら即ゲームオーバー系のあれだ。4:30 2014/07/20 ぼくの無事を確かめた直後、鬱陶しいとばかりに目の前で携帯の電源を切ったのをけして忘れない。 「承太郎」 口の中のご飯を飲み下して相手を呼ぶと視線だけ寄越される。 「君、あの豪華なマンション帰ってるのか?」 「必要ならな」 支部に顔が出しやすいよう、利便性のある土地に名目上の部屋がひとつ。 日本へ居たとしても動き回る承太郎は忙しく、ホリィさんの実家と行き来するには慌しい。 それなら、とジョースターさん名義のマンションの一室が提供されたのだ。もっとも、多すぎる部屋数は全く活用されていないけれど。 「別にここへ来るのは構わないよ。でもぼくもいない時はいないし」 「そのための鍵じゃねーのか。文句言うならてめーが来い」 「契約更新まで2ヶ月はあってね」 ぴた。黙々と丼の中身を口へ運ぶ承太郎の手が止まった。 探るよう、静かに一部を繰り返す。 「2ヶ月か」 「ええ」 数秒に満たない沈黙、瞳の輝きが翡翠からエメラルドへ変わる。 「業者を手配する、後で詳しく日付を言え」 「即答すぎるぞ、承太郎」 「たりめーだ、何年待ったと思ってやがる」 断定の響きに思わず嗜めれば睨む目線。 不機嫌そうな台詞の終わりに掬った米を大きく一口。 食べるのをやめないのは作った身として嬉しいがどこかシュールだ。 「他人丼食べながらする話だったかなとは思っているよ」 ぼくも続きをもぐもぐ租借。噛んでいるから喋れない間、じとーっと注がれる視線が重くて痛い。 「仕方ないだろう」 僅か鋭さを込めて言い放つ。至極勝手な話ではあるが、いきなりすとん、と胸にきた。 極限状態で、なんて吊り橋効果めいた自覚は今更の話。空条承太郎を相手取った時点でゴールはとっくに見えていた。 「君が居ないと生きていけない」 乾いた音を立て、承太郎の手からレンゲが落ちる。 呆然と見やる彼がおかしくて表情が緩んだ。 「実感してしまったから、責任を頼むよ」 押し付けられたマンションの鍵を、そろそろ有効活用してもいい。 |