急がば回れとよくいった


はっきり覚醒しておよそ五分にも満たない。
夢と現実の境にあった花京院の意識を引き戻したのは紛れもない身体の痛みであり、同時に現状を否応なく理解した。
大して広くもない1DKは部屋探しから付き合った優良な物件で、楽器もOKなほど壁は厚い。
通い慣れたおかげで食器の位置も把握しているし、花京院くんがついていれば安心ね!と彼の母親公認で持つことになった合鍵も仕方ない。
横たわる布団の中で小さく息を吐き、寝返りを打ったところで襖が開いた。
開ければすぐキッチンが見えるこの間取り、こちら側の和室はいわゆるプライベートルームな訳だが驚くほど物は少なかった。
狭いのに増やせばきりがない、と必要最低限の荷物で済ませることの出来る自制心は素晴らしいといえよう。
しかしこの時この状況、着ていた服はどこへやら、とりあえず彼のものらしいシャツだけを着せられて寝ていた事実を何とするべきか。

「目が覚めて傍に居ないのは減点だな」

相手に見えない布団の中で素足を擦り合わせ目を眇める。下着がないのが心もとない。
ミネラルウォーターを片手に立つ承太郎は僅かに息を詰めて低く呟いた。

「……悪かった」

そのあまりに贖罪めいた様子が可哀想に思えてしまい、本気でもなかった発言を撤回する。

「冗談だよ」

言い訳をしない彼は近付くのを迷ったが、手の中のものを渡す目的を果たそうと踏み出した。
大方、水を取りに行くうちに目覚めただけの話で、タイミングを責める必要はない。

「というかこの状況が冗談だと笑い飛ばしたいところだけれど、そうもいかないようだね」

起き上がる気力も体力もなく、寝転んだまま言葉を紡ぐと承太郎は険しい顔で座り込む。
見下ろす角度で花京院へ向かい合った表情は真剣そのもの。もう一度何か言う前に口火を切った。

「おめーが好きだから抱いた」
「本題まっしぐらか。もう少し混乱させてくれてもいいと思うよ。まあ一夜の過ちの責任をきっちり取る君の性格はぼくも好きだが」
「間違いじゃねーよ」

インターバルすら許さず畳み掛けてくる勢いに突っ込みさえままならない。
順を追って話すつもりの花京院を遮って言い募る承太郎は不機嫌に見える。

「おれが酒くらいでやらかすと思ってんのか」
「いやまさにそういう事例だろう」

二人きりで飲むのも珍しいことではなかったし、宅飲みなんて今更の話だ。
旅の途中、ホテルでひっそりと酌み交わした思い出だってある。
だがしかしそれはそれ、気心の知れた開放的な空間が引き起こした衝動の線は捨てきれないのだ。

「それなら最初に連れ込んだ時点でとっくにやってる」
「何とも反応に困る」

言葉が若干通じなくなってきてしまった。要約するならタガを外す気はなかったが、みたいな意味なのだろうが花京院の翻訳機能にも限度がある。
打てども響かぬ応対に痺れを切らしたか、眉間の皺を深くした承太郎が責めるように言った。

「だいたい、てめーがおれを好きなんだろーが」
「いや好きですけど」

一瞬の間と凄まじい眼力。睨みつけてくる相手は幾分トーンを落とし威嚇の構え。

「親愛として、をつけてんじゃねーよ」
「うーんエスパー」

鋭い舌打ちが耳に届く。完全に猛獣の前の餌の気分だ。
昨晩の会話を思い起こす。他愛ない雑談から近況に移り、学部の違う二人はそれぞれの日常を語っていた。
そのうち、進んで話すつもりもなかったネタがついぽろりと零れでてしまう。

「この前、同じゼミの子に交際を申し込まれてね。さっぱりしていて気持ちのいいタイプだし、女性と付き合う経験があってもいいかもしれないな、なんて思ったんだ。しかし、同じ気持ちになるかわからないのにいいですよ、と答えるのも憚られて結局断ってしまった。それに、なんというか……」

的確な表現を探しあぐね、缶へ口をつけて一旦置く。炭酸が喉を通るのを待って、息と共に吐き出した。

「やっぱり君と居る方が落ち着くな」

無意識に緩んだ顔を向け、そこで押し倒された。
反芻終了、なるほど確かに煽る要素はある。
ふむ、と呟く花京院へ注がれる眼差しは殺気に近い。

「言っとくが、あの手の台詞は一度二度じゃねーからな。おれがどれだけ我慢してきたと思ってやがる」
「それはまたお疲れ様です」

ワンモア舌打ち。布団へ隠れきらない首筋についた赤い跡はひとつふたつではない。
決まり悪げに一度視線を流した相手が頭を大雑把に掻いた。

「やっちまうつもりはなかったんだぜ、これでも」
「そうか、潤滑剤とゴムがあったことを問い詰めないであげよう」

承太郎の手からペットボトルが落ちる。そろそろ喉が本当に渇いたな、と思いながら花京院は相手を見る。
衝動を抑えつつ方法を調べておくあたり、すごい自信だった。
何の準備もなくやらかすよりはいいだろ、とか言われてみればその通りではあるが開き直った発言がいっそ面白い。
慎重なのか大胆なのかよくわからない男だ。
最後まで一気にやるつもりはさすがになかったらしく、その点についてだけは素直な謝罪を頂いた。釈然としない。
被告の発言はエスカレートする。

「最初は既成事実の振りをして攻略していくつもりだったんだが」
「君の思考怖いな?!勢いでやるより余程悪質だぞ」
「るせーな、グズグズして他と試しに付き合うだのされてたまるか」
「うわあ」

致してしまわなくとも突き進む心算を暴露されて思わず声が大きくなるが、それを受けての本音に呆れの三文字が口をついた。
切っ掛けもスイッチも花京院の失言にあるというのがまた居た堪れない。

「それともマジで経験あんのかよ」

だったらそいつを殺す、の意を込めた詰問にやれやれと肩を竦める。

「ぼくに相手がいなかったのは君が一番知っているだろう、ずっと傍にいたんだから」

キスさえ昨日が初めてだと告げれば分かりやすく上機嫌に口元が緩んだ。
押せ押せ全開の俺様はそこで静かになり、転がりっぱなしのミネラルウォーターへ視線を落とす。
言うことは全て言った、そんな様相で罪人よろしく本題へ戻る。

「で、だ。おめーはこれだけされて許すのか」

審判を待つ態度の承太郎に、忙しいことだと軽く答える。

「まあ君だし」

三度目の舌打ちは瞳へ怒りの炎を浮かび上がらせた。

「その許容の出所はなんだっつってんだ」
「愛かな」

感覚任せで伝えた事実は捨て鉢の美男を固まらせ、その間に両手をついて身体を起こす。ペットボトルを拾い上げるとキャップを回し、いい具合に常温となった水で喉を潤した。ゆっくり半分ほど飲んだミネラルウォーターは零れないようきっちり閉めて、脇へやる。
やっと同じ目線になった相手へ向かい合い、穏やかに話し始めた。

「君の語るような独占欲その他は今のところすぐには出てこないんだが、それは単に承太郎のベクトルがぼくに向いているのがあからさまだからかもしれない。例えば他の誰かに、と考えてもそのイメージがまったく浮かばないほどには重症だ。そしてそんな君が可愛いとも感じている。ぼくへの執着もこじらせた親愛だと思っていたから今に至った訳で、要するに相互理解が足りなかったんだろう」

瞬きもせず、動けないままの承太郎へ身を乗り出す。伸ばした指で顎を掬い、瞳を覗きこんでやる。

「つまりは、さっさと言葉にすれば解決していたってことさ」

花京院、と唇だけが動くのに柔らかく目を細めた。

「君を拒むわけがない」

再び布団へ沈められ、同意のあるキスにくすぐったく笑う。
何度も自分を呼ぶ声をいとおしく感じながら、背中をなぞる。

「承太郎、まず言うべきことは?」

人差し指で唇へ触れると、吸い付く感触の後、はっきり告げた。

「好きだ」

昨夜、何度も見た渇望の色合いを認めて満足を覚える。

「よくできました」


戻る