おはようユートピア


インターホンを押しても反応がないのはいつものこと。
慣れた仕草で取り出した合鍵。最初から開ければいい話かもしれないが、それは留守の時にしろと言われているので毎度律儀に工程を踏んでいるのだ。製作に熱中してしまえば在宅の判別がし難い花京院は、没頭中か睡眠の二択であり、今回の場合は後者だろうと検討をつける。理由は昨日が延びに延びた締め切りだからだ。
芸術とは好きに描いていれば済むものでもなく、本人の趣味もあってデザインの仕事も請け負っている。早めに提示された納期は案の定ぶち破られ、最後に電話した時は追い詰められていっそハイだった。清々しいほどにやばいね!と明るい声で告げる相手へコメントは差し控える以外に何ができただろうか。
そんなこんなで本日ちょうど時間が取れたので訪れたところ、予想通り返事はなし。遠慮なく入り込んだリビングはかろうじて整理が保たれていたが――玄関を開けてすぐだから取り繕っている面がある――寝室のドアを引けば無法地帯。衣服があちこちに散らばり、紙束が崩れた跡が見える。そして、今まさにジャケットを踏んだ。
ベッドの主はパジャマですやすやと寝息を立てており、下敷きになっているタオルから風呂上りでそのまま倒れこんだと推測する。アトリエに当たる隣の部屋を覗いては汚すことまかりならんとばかり綺麗な彼の住居は、多忙を極めるとこのようになる。絵の具がついてなくともこれだけ散らかれば十分だった。どうせ洗濯する運命の衣服を拾って道を作り、花京院へ辿り着く。

「せめて布団くらいかぶれ」

呆れた面持ちで掛け布団を引こうとすると、相手がころんと寝返りを打つ。ぼんやり開いた瞳は焦点が合っておらず、ひらひら目の前で手を振ってみる。寝惚けたまま僅かに首を傾げた花京院が、ふわり、微笑んだ。

「承太郎、会いたかった」

仰向けのまま広げられた両腕の意味は考えるまでもないが、思わず固まる。承太郎が来ないことに疑問符を飛ばす花京院は少しだけ起き上がって更に腕を伸ばした。無意識でベッドへ乗り上げて抱き締めたのも仕方のないことといえる。嬉しそうに擦り寄った相手だが、すぐさま不満げに呟く。

「ベルトが痛い」

胸元にある金具が邪魔だと言いたいらしい。む、と顔を離すのにやれやれと息を吐き、コートを脱ぎ捨て、ベストとベルトを順番に外す。帽子だけサイドテーブルへ置き、もう一度花京院を抱え込んだ。

「ん、」

機嫌を直してひっついた相手はすりすりと何度も胸元に頬を寄せ、ぎゅうっと抱きついて離さない。引き込む力に抗わずベッドへ横たわるとそのうち聞こえてきた寝息は予想通りで、承太郎は抱き枕に努めた。

いつの間にか眠っていたのを叩き起こしたのは鳴り響く時計のアラーム。勢いよく飛び起きた花京院が承太郎を乱暴に引き剥がしてリビングへ駆ける。

「仕事のFAXが来るんだ」

ほぼ間を置かずに自動受信されるのを待ち構える相手を若干ぼんやりした頭で見守った。届いた紙を手に取るとすぐに電話を掛けてそのまま話しこみ始めたので、承太郎はお湯を沸かしに行く。コーヒーを淹れる為だ。
一杯ゆっくりと飲み終えた頃に通話が終わり、息をつく花京院へ保温した分を差し出す。

「ありがとう」

喉も渇いていたようで程よい温かさを二口ほど飲み込んだ相手は思い出したように真顔になった。そしてそのままそっとカップを机へ置き、流れるような動きでアトリエの引き戸に手を掛ける。がらりと開けてばたんと閉めた。

「忘れろ」
「命令形か」

扉の向こうから聞こえる端的な言葉に感想を述べると、途方に暮れたような声になる。

「忘れてくれ……頼むから」 

寝惚けによる一連の行動をしっかり覚えているらしい花京院は羞恥に耐え切れず篭もってしまった。あのカミングアウトから数週間、わざと跳ね付けていた分も相まって気の緩みを感じてはいたが、まさかあそこまでフルオープンに心を開かれるとは承太郎こそ予想外だ。かといって、ここで押し問答をしても会いに来た甲斐がないので攻めていくことにする。

「出てこねーならおれは帰るが」

途端、勢いよく開く天岩戸。

「いやだ」

子供のように拗ねた声を出す顔は染まって赤い。いとしさに両手を軽く広げると、ぽすんと凭れ込んでくる。緩む口元を抑え切れず、上機嫌に五文字を囁きかけた。小さく聞こえる同意に合わせて抱き締める力を強くする。


戻る