絶対定義


慌ててまとめた荷物の中に引継ぎも不十分だった仕事の資料を発見した。
その場で放り出して承太郎の元へ駆けつけたのだから今更ではあるのだが、手をつけていただけに気になってしまう。 なんとなく読みふけっているうちに風呂から上がったと思わしき承太郎が近付いてきた。 視線を向ける前に紙の束が奪われる。

「何だこりゃ」

眉を寄せる相手の肩に落ちる一筋の雫。
出かける前はともかく、寝る間際のタオルドライが適当なのは頂けない。
申し訳程度に首に掛けている布を是非活用して欲しかった。

「君、英語は読めるだろ」
「中身の話をしてんだ」

僅かむっとした様子に笑いが零れる。資料を返すよう手を差し出しながら旅立つ前に話した概要をもう一度。 要は各支部の視察というやつで、長くなりそう、どころか数ヶ月は確実と通達された時の承太郎は見物だった。 一瞬固まったあと、財団直通コールを掛けようとしたのをハイエロファントグリーンで捕縛したのも懐かしい。 結局、定時連絡をかかさないことで譲歩に譲歩を重ねたといった様子で承諾したのだから面倒くさい男である。

「支部巡りとか規模がおかしすぎるんだよ。ワールドツアーにも程があった」
「よく終わったな」
「終わる訳がない、引継ぎもろくにせずに来たよ。おかげさまでこの件が終わったらしばらく缶詰めかな」

相槌に肩を竦め、資料をしまう為に立ち上がって視線が止める。見つめる先には己のジャケット、およびその上に掛かる白いストール。 本日、不可抗力で持ち去られたそれは引っ掛けたりもせず無事に返却された。

「……まだ文句あんのか」

思わずじっと見ていると、傍らの彼から抗議がぽつり。

「いや、少し思い出に浸ってしまって」
「は?」
「君、煙草吸わなくなったろう?」

色褪せない旅の軌跡、時には鍵となることもあった喫煙はトレードマークのようなものであり印象が深い。

「たびたび匂いが移ることもあってね。ああ、不快だったわけじゃない、単なるイメージさ」

花京院が病院に居る間、通う承太郎から煙草の匂いはしなかった。つまり、習慣を完全に断ったのだ。 自分の為かと聞くのも恥ずかしいし、なけりゃないで問題ない様子の相手を突付くのも無粋なのでそのままで現在に至る。 白いコートが一張羅となった現在、是非とも禁煙を貫いて欲しい。
そして夕方に手元へ戻った布を羽織りなおした時、掠めた香りはよく馴染むもので。

「今は煙草じゃなくても君だと分かるようになったなあ、と」
「ほう」

心のままに紡いだ台詞は上機嫌な相槌で掻き消された。手首を掴む力にバランスを崩し、資料が宙を舞う。 まんまと倒れこんだ先は相手の腕の中だ。

「おれの匂いを覚えたってか」
「解読してくれなくていいんだよ」

囁きこまれる嬉しそうな声に嫌な予感しかしない。髪へ鼻先を埋めた相手がおもむろに耳朶を舐めた。

「っ、承太郎!」

ぞくりと背筋に走る震え。嗜めるよう睨んでも、受け止める瞳は喜色のみ。

「おめーの匂いはおれも知ってるぜ」
「そんなことは聞いていない!」
「興奮する」

一瞬、獰猛な光を宿した緑に息を飲む。
絶句する花京院へ求める眼差しがまっすぐに注がれ、静かに問う。

「嫌か」

強い欲を訴えられ、逃げるように視線を泳がせる。

「昨日、も」
「嫌か?」

繰り返し、今度は答えを求めて音が変わった。こちらを向けと頬を撫ぜる手はそれでも強制ではない。 いつもいつも、最後には選ばせる彼が恨めしい。

「そういう聞き方は、卑怯だ」

今度合わさった瞳の色は、ほんの少しだけ不安に揺れて見えた。

「ぼくが君を拒めるはずがないのに」
 
抱き合ってシーツへ沈みながら、笑みで緩む承太郎の口元を親指でなぞる。
その返答が聞きたくて、言葉を重ねる予定調和。
すべて分かっていて、ただ腕を広げるのだ。


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