諦観は自己満足に添えて


目覚めれば、そこは白い部屋。
分かりやすいシチュエーション、視界に入る点滴の管を見て花京院は悟った。
まさかのまさか、自分は生き延びたのだという事実を。
仲間へ最後の望みを託してから三年の月日。知らないうちに成人していた肉体は見事やせ衰えており、日常生活を取り戻すまで随分かかった。
医者の知らせで駆けつけた母親は泣き崩れ、手を取って何度も名前を呼ぶ。 脳に後遺症もなく、奇跡の回復。それは神様が与えてくれたボーナスステージに他ならない。長いこと蝕んでいた孤独はあの旅で癒され、 無事を喜ぶ両親に心から申し訳ないと思った。傍から見れば失踪した挙句に外国で謎の死を遂げたも同然、 面倒な部分はスピードワゴン財団が全て取り計らってくれたらしく、自分は事件に巻き込まれた扱いだとか。 辛いことは思い出さなくていい、なんて優しく告げる父親に良心の呵責。 しかし、真実を伝えられるはずもないし、三年使っていない喉はまともに喋るのも一苦労で見事うやむやになる。
リハビリを重ね、動けないぶん知識の探求に費やしたおかげで飛び級で大学を卒業。
空白のぶんをスキップするよう社会へ追いついた花京院は研究職となった。

ある日、業界御用達の雑誌を暇つぶしで眺めていたら、コーヒーで咳き込んだ。
海洋学の第一人者、空条承太郎。見出しを飾る雄々しき青年は忘れもしない、あの五十日間を駆け抜けた同志である。 興味のない分野にはまったくアンテナを張らないたちの花京院へ青天の霹靂。 面影を残すどころか、ほぼそのまま大人になりましたレベルの元友人は白い衣服で誌面に佇んでいる。 帽子も裾もあの頃と似通ったデザインでなおかつ違和感がないのだから、天は二物も三物も与える贔屓だと感じた。
別に追いかけるつもりもなかったが、一度意識に止まると情報を拾ってしまう。
それからしばらくして博士号を取った取材の中で、光るものが視界に入るのも早かった。

「成る程」

あの承太郎を、射止めた誰かが存在するのだ。
押し寄せるのは安堵、そして喜び。
彼が幸せに生きているのなら、それに勝るものはない。

だいぶ自由に動けるようになって、初めて海外へ赴いた。 死に掛けておいて図太い神経だと我ながら思うけれど、仕事の都合でもあり、久々の飛行機を無事に体験した。
海に近い港町、地中海独特の空気で些か浮かれつつ市場を歩く。 リハビリを始めてから趣味となった散歩は健脚をもたらしており、花京院は職業の割に体力があった。
活気満ち溢れる場で上機嫌な鼻歌が思わず零れ、くるりと視線を巡らせて目を見開く。
頭ひとつ飛び出る身長に白い帽子、立てた襟には星型のついた――博士号おめでとうございますそれはヒトデですか、と一瞬で頭に駆け巡る――威圧感どころじゃない男。

ここにいるはずのない、否、それは自分だと思った。

それはもう逃げた。ダッシュで逃げた。
海洋学者飛び回りすぎだろう、いや、海を調べるなら当たり前のことなのかと混乱する思考でひたすら走った。 だがしかし悲しいかな、リハビリを終えた健康体(ブランク有り)と現役スタンド使いの差など考えるまでもなく、白昼堂々の大男との目立つ追いかけっこは近くの海岸にてあっけなく幕を閉じる。

「ひと、ちがいじゃ、ないですか」
「この状況でよく言えたもんだな」

息を切らせてなお往生際の悪い自分の腕はしっかりと掴まれ―― スタープラチナを使えばもっと早く捕まえられただろうに自力で走ったのは彼の意地か何かだろうか―― 顔を合わせようとしないのを咎めるよう引き寄せられた。 がくん、と揺れる身体を受け止める頼もしい力。よろけた瞬間、見えた瞳はどこか怯えたような色に思えた。 それが花京院の体調を心配してのものだと知ったのも後の話。
とにかく、捕獲されてしまったのち、始まるしかない尋問。

「なに逃げてんだ、てめー」

昔よりも低くなったバリトンが凄みを増して届く。
ねめつける視線はとても怖い、そして厳しい。

「いや、ほら、生存本能的な」
「花京院」

泳ぐ目の動きを叱責するよう、一回。

「君、迫力あるし」
「花京院」

止まらない口を諭すよう、もう一回。
呼ばれる響きに敗北を認めた。
瞼を閉じ、深呼吸して相手を見る。

「……久しぶり、承太郎」
「ああ」

答える顔は、なにを考えているか分からないいつもの彼だった。

連絡先を教えろと言われたので、「一時的に滞在しているだけだし携帯もない」と息をするように嘘を吐いたところ、 スタープラチナがポケットから携帯電話を奪っていった。それは犯罪だと真剣に伝えたい。 勝手に番号とアドレスを打ち込むと投げて寄越す。送信履歴に発信履歴できっちり回収済みな素早さに頭が下がる。

「言っとくが、帰国早々で変更手続きとかするんじゃねーぜ……この控えた番号からあらゆる手段を使って追跡してやる」

見下ろす相手の視線は本気と書いてマジと読む。激昂されるより余程の恐怖だ。
受け取ってすぐ考えた手段は実行に移さないほうが身の為だと釘が刺さった。

そして現在に至る。定期的な生存報告は研究職という同じ分野のおかげでむしろ密になった。
スピードワゴン財団との繋がりを改めて得たおかげで花京院の基盤もすこぶる安定、文句なしの大団円。 携帯の画面を指でなぞり、深々と溜息をつく。
彼が離婚していたと知ったのは、帰国してすぐのことになる。

***

別に隠していたわけではない――はさすがに言いすぎであるが、 花京院も生活を取り戻すのがまず第一で、更に言えば両親に余計な心配をかけるのも難しかったのだ。 ジョセフにもポルナレフにも伝えたい感謝や謝罪はたくさんあって、それでも連絡を選ばず生きた。
ひとつは無様な自分を見せたくないというプライド、もうひとつは復帰してから目にした真実。
承太郎へ繋がる糸を辿ってしまえば、取り返しがつかなくなる。
彼にはとっくに過去のこと、自分は起き抜けの連続した時間。その三年の差異を押し込めるのにも数年かかった。 女々しいと思う、情けないと思う。けれど未練とかいう忌々しい感情は今も黒くすぶっている。

砂漠の夜、星を眺めながらなんでもない会話を交わした日。
ふと視線が絡み合い、自分は笑った気がする。承太郎は何も言わず、そっと顔を寄せた。
それだけ、本当にたったそれだけ。
約束も言葉も明確なものは何一つない、ただいつまでも胸に残る星の輝きと温かな感触。

「その相手に娘を任せる無神経はどうかと思うよ承太郎……」

インドア研究者へアウトドア学者が頼るのは決まって一人娘の相手役。
徐倫は女の子なのに何を考えてるんだ、というツッコミはあっさり懐かれたことにより意味をなくす。 父親似は美人になる、なんて俗説はしかし、遺伝子の質次第と知らしめた。きっと母親も美人なのだろう、 幼いながら整った顔立ちは無邪気な笑顔を自分へ振りまく。 小さな子供に花京院、は言いづらい。両親以外に呼ばれた覚えのない呼び名がかわいらしいソプラノに乗る。

「ノリアキ!やっと来た!」

預かった鍵で玄関を開けた途端、飛びつく徐倫は一体誰の娘なのかと問いたい。
承太郎と再会しておよそ三ヶ月。誰よりも彼の家を知る存在となってしまった。
独り立ち後の花京院はそれこそ日常を楽しんでいた。定期的に両親とは連絡を取りつつ、仕事の合間に趣味の時間。 自炊の方がローコストであれば率先して覚えたし、整理整頓も嫌いではない。 あくまで己が気持ちよく生活するためのスキルが現在、緩いハウスキーパーの役割を助けている。
ノートパソコンを持ち込み始めたあたりで取り込まれる簡単さが情けないと自戒。したところで、 現状が変わる訳でもないのだが。ここで振り切れぬ弱さが一番の問題とも自覚はあった。

忙しくあちこち出張していた承太郎が荷物も少なく帰宅したのは日付前。
徐倫を寝かしつけてから帰るタイミングを失っていた花京院はこれ幸いと帰り支度。
夕飯の残りが冷蔵庫にあるよ、だとか最早開き直りの態度で台所を示す。
玄関へ繋ぐ通路の前に立つ相手が口を開いた。

「めんどくせえ処理を終わらせてきた。しばらくは空く」
「それは良かった、お疲れ様」

じゃあぼくは帰るよ、と言い残してすり抜けようとした腕を掴まれた。明らかな既視感。

「話がある」
「ぼくにはないかな」
「じゃあ聞け」
「おっと強制だ」

静かな声音と空々しい相槌。笑いを含ませて軽く言っても、広がり始めた重々しい雰囲気はちっとも和らがなかった。 彼はこの時を待っていたのだ。逃げずに話をするしかない今の為に、 場を投げ出さす粛々と与えられた役をこなす花京院の愚かさと卑怯さを見越した上で。否、逃げるかどうかも花京院に委ねた上で。

「理由を言え」
「主語がないね」

承太郎の舌打ちが鋭く鳴った。

「この十年以上……っ」
「ぼくたちには何もなかっただろう?!」

責めるような音を打ち消すよう声を荒げる。
慌てて口元を押さえ、奥歯を噛み締めた。
(そう、何もなかった。本当に何もなかったんだ)

「たったあれだけ、二ヶ月にも満たない旅だ。もちろん得たものはたくさんある、君たちはぼくの初めての友だった」
 
欠けていたものを、安らぎを喜びを感じ、ようやく世界へ加われた。
それこそが誇り、生命のきらめき。
過去を大事を思ってくれるのならば、綺麗に終わらせてくれたらいいのに。
どうして見つけてしまったのだろう、止まった時間の針が動き出してしまったんだろう。

「花京院典明は死んだ!それでいいじゃないか!」

叫んだ刹那、承太郎が息を飲んだ。
無意識で腹部へ手をやり衣服が皺になる。再会した日の眼差しがオーバーラップする。
俯いて、引きつった喉から搾り出す。

「……っぼくは君の人生に介入したいわけじゃない」
「そいつはおれが決めることだ」

語尾の終わらぬうちに遮ったのは、凛と通る宣言。
顔を上げられないまま、耳を疑う。

「零れ落ちたもんを拾ってなにが悪い」

あくまで正当な主張であると、居直る態度をよく知っている。
多くを語らず、言い訳もしないくせに通じないことを気にも留めず彼は彼で在り続けた。
混乱する頭を揺さぶるかのごとく彼が肩を掴んで、覗き込む。

「軽蔑なら好きにしろ。ただし、おれはお前を諦めるつもりはないぜ、花京院」

足元の感覚が消え失せた。身体が後ろへ傾いで、通路を隔てる扉に背が当たる。
ずるずると滑りながら崩れ落ち、手が引かれる感触にぼんやり視線を上げた。
肩の手はたたらを踏んだ時に外され、その代わり最初に取られた腕が優しく手を繋ぐ形になっている。 花京院に合わせて座り込んだ承太郎が殊更ゆっくりと絡めた指へ口付けた。

「ぼくが、君を嫌えると思うのか?承太郎……」

滲む視界を片手で覆えば、笑う気配のあと、頭へ掌が乗る。

「おれの勝ちだな」


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