もたれさせて。文句言うから


今日が特別何かあった訳じゃない。 言うなればそれこそタイミングで、招いたというか上がり込んだというか境界も名目も曖昧な夜の時間は 方向の定まらない酒盛りと化した。
最初だけ台所に立ち、器用にいくつか温かいものをこしらえた倉間は買い込んだ他のつまみの袋を傍らに置き、 グラスを手に取る。視線が合い、カツンと打ち合わせると氷が揺れた。
会話もどうということはなかった気がする。 本当の本当にいつもと変わらず、むしろ変わらなかったのが悪いのか、日常の延長だったはずの飲みは雲行きが怪しくなり始めた。
酒量が、おかしい。違う、ペースがおかしかった。 気付いたのは瓶が一本空いてからの話で、よくよく考えれば自分の配分も早まっていたのかもしれない。
自分と居たほうがセーブするくせのあるこの後輩は、無茶な飲み方を避ける――はずだった。

完全に眼が据わってから数分だろうか、 口数が少ないと思い始めたあたりから膨らんだ殺気めいたものがひたすら痛い。 これはどうするんだと流れるグラスの水滴に現実逃避しているうち、相手が机に底を叩き付けた。

「納得、いかねぇ」

何が。問う前に視界が上を向いた。
残り少ない中身が床に零れる。ごとん、と落ちた音からして割れてはいない。 良かったようで、現在進行形で広がるフローリングへの水分が自分へと流れないかが正直気がかりだ。
しかし、それがもし服に染み込んできたとしてこの体勢を逃れる言い訳になるかといったらかなり怪しい。
第一、酔っ払いに話は通じないのが常識だ。
押し倒された僅かな間にそこまで思考が回ったあたり余裕があるかといえば、もちろん真逆。
圧し掛かりつつも上背は少し浮かされて、胸倉を掴み上げられている。殴られる直前に近い。
日頃の怒りが爆発したとかそれ系なのか、酒でタガが外れるくらい何かしたのか自分は。
睨みつける瞳を逸らせず、身動きも出来ない時間は短かった。 掴む両手で引き寄せられ、不機嫌な顔が迫る。理解する前に唇が触れた。 重なった瞬間に頬へ手が移動し、押し付ける感触と微かな吸い付く音。 思わず息が漏れると上唇が食まれて、味わうように長いキス。 少しの、酩酊。酒なんかよりずっと性質の悪い、酔いが回る。
触れているあいだ閉じていた瞼が開き、またも鋭く視線で刺しながら倉間が言った。

「どーせ信じてないんだろ。アンタいつもそうだ。 探って探って確かめるようなことばっかするくせにいわねーし、どーでもいいことばっか直球で」

毒づきだ、と認識はするが思考に繋がらない。

「むかつくむかつくむかつくむかつく」

肩が押され、背中が床についた。見下ろす表情は怒りより悔しさのほうが勝つように見える。

「どうせ手ぇ出さない、ヘタレ」
「は、」
「つーか俺まってねーし別に!仕掛ける雰囲気をアンタがなくしてんだろ、ほんとふざけんなマジ」

飛び出した主張に脳内でエラーが巻き起こった。

「おれはあんたならどっちでもいいんだよ、ばーかばーかばーかばーか」

もはや子供みたいに罵りながら口調の勢いが弱まっていく。呂律も不安定だ。
睨む瞳にほんの少しの陰りが映り、胸へと崩れ落ちながら片手でまた肩を掴む。
開いたシャツの鎖骨から掌と指が辿る、喉仏を通る感覚にごくりと鳴らす。

「すきでわるいか、ずっとすきでわるいか、」
「くらま」
「ずっとずっとずっとあんたがよかったのに」

頬を撫でながら指先は耳へ触れた。焦がれる声色、瞳が恋情を湛えて揺れる。
息が出来ない。溺れたような錯覚、もがきたい衝動、酸素を求めた。
倉間の表情が、溶ける。

「まじうぜえ」

ぱたん。本当にそんな音が聞こえたんじゃないかというくらい 緩やかに触れる手が落ちて、見事圧し掛かったまま意識を失う。 首元に口の辺りが被る絶妙な配置が辛すぎる。息がかかって気が気じゃない。
健やかな寝息が聞こえてくるのと反対に、落ち着きのない鼓動が身体を駆け巡る。
案の定、零れた液体がシャツに染みてきた。起きて片付けて着替えて倉間を寝かさなきゃならない。

「どう、しろと……」

やるべきことを考えつつ、相変わらず身動き不可能。 自分の上で寝こけた倉間が体温に擦り寄るのも相当拷問だ。
酒のせいでなく熱いのは、今触れた自分の額でよくわかる。 伸ばせなかった腕を回して抱き締めながら、深い深い息を吐く。

「起きて言えよ…」

情けない音で愚痴を零した途端、寝言で小さく、すき、と聞こえた。


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