憎みきれないろくでなし



「忘れ物、ないですよね」

がくん、と揺れるような感覚。視界に入るのは自分の部屋、天井。
見慣れたようで慣れない風景に息を吐く。前髪を掻き回した。
この短い期間でまさかの三度、問い掛ける言葉で目が覚める。 身体は動かず、振り向くことも出来ない。そりゃそうだ、当然だ。 夢のくせに再現ばかり、自分が起こした行動さえ覆せない。
未練、未練、未練、未練。女々しすぎて反吐が出る。 期待しないと決めたんじゃないのか、諦めたからやめたんじゃないのか。 新しく借りたこの部屋も、もはや自分のものしかないんだ。
残っているのは心だけ。切っておいて、捨てきれない、逃げるしかなかった怯えだけ。

最後の言葉は確認だった。引き止めでさえなかった。
頷いて、ドアを開けた。振り返らずに、出て行く。
閉まる音を聞きながら、踏み出した足はひどく重かった。

倉間との付き合いは片手を過ぎる。
純粋な先輩後輩の期間を含めれば、中学からの縁なんて凄いと言われるレベル。
そんなもの、自分が絶たないようにしたからに決まってる。 逃げないくせに決定的でない相手を捕まえたくて、当たり前のように隣を歩いた。 片思いではない、決して。返るものもきちんとあった、それでやっていけると思っていた。 思っていた、けれど、人間というのは貪欲で、欲しいと思えば次が生まれる。それこそ、いくらでも。
自分だけがと思えば後は早かった。急速に乾く、飢える、渇望するのに与えられない。 俺が望むものには手が届かないんだと、乾いた地面にひびが入る。足元が、崩れた。
まさか自分が、よくある恋愛ドラマの悲劇ぶった感情を抱くことになるなんて思いもしなかった。

――足りない、なんて。

そしてそれはどうにもならないってことも、よく、知ってる。

離れてから一ヶ月が過ぎようとしていた。 つまり週一で夢に見ているわけだ、自分で引く。
すっかりついた自炊の癖は二人暮しの名残で、籠に入れる食材の量を間違えかけて手を止める。
一人で消費しきれるだけ、そんな簡単なことさえ迷いになる。馬鹿馬鹿しい。
ゴミ出しは当番制、食事は臨機応変に、作ってもらったほうが後片付け。決めたルールは徹底した。
倉間が大学に上がって二年間、染み付いた生活基盤はそうそう抜けやしない。
買い物袋を机に置いて、溜息をついた。

学部も学年も違えば広い構内で行き会うことも難しい。 避けるまでもなく一ヶ月まったく遭遇しなかった。
離別に向けての自分の用意周到さを思い起こすとなんともいえない気分になる。
ふと、思う。あの、少しずつ固めていく準備の進行を、倉間は本当に気付いていなかっただろうか。
切り出したときの態度、変わらない表情。諦めを確実にするには十分な空気感はハッキリ言って出来すぎだった。
泣きもせず怒りもせず、ただ淡々と頷いた。まるで承知していたかのように。
だとすれば、滑稽にも程がある。

随分と分かりやすく振られていたんじゃないか、俺は。

自重笑いが思わず零れた。朝方から楽しい思考で参ったもんだ。
渡り廊下に差し掛かり前を向くと、よりによってこんな時ばかり当たりがいい。
歩いてくるのは、さっきから、否、ずっと頭から離れてくれない元凶だった。
人通りの少ない、むしろ時間帯の関係でお互いしかいないこの状態で気付かないほうが難しい。
離れた場所からでも一瞬強張ったのを察する。苛立ちが生まれた。

「よ、久しぶり」
「あ、はい」

殊更ゆっくりと近づいたのち、簡素な挨拶。 反射的に返る、困ったような声音。はいってなんだよ。
目を合わせるようで合わせない、逃げたいと全身で訴える挙動。 さすがに気分が悪い。
そこまで嫌かと、俺が。怯えるほどに。 今度こそ理解した、よくわかった。
この気持ちは俺だけのもの、狂おしいほど欲する感情は無駄でしかないと、実感する。

「じゃ」

特に言葉も交わさずすれ違う。 きっとこの先、会うことは、会ったとしても、もう。
早足になるのは無意識で、だから後方の音にも一瞬反応が遅れた。 随分と大袈裟な、ばら撒きでもしたか。ついつい振り返って目を瞠る。 床に散るファイリングケースとペンケースに書籍。拾い集める必死な姿より何より。
倉間の頬を、涙が伝っていた。

「くら…、」
「っ!」

目が合ったのはほんの刹那、立ち上がった倉間のスタートダッシュは速かった。
荷物を抱えながら朝の構内を疾走する。考えるより先に足が動く。

「っこの!」

相手に比べて自分は身軽だ。何せ休講の予定を確認しに来ただけ。
一限目の始まった廊下を走り抜け、見慣れた背中を夢中で追う。 さすがに元運動部スタメン同士、本気で走ればなかなかの勝負だが、ここは開けたフィールドじゃない。 行き止まりがあれば、それでゲームセットだ。
運良く飛び込んだ空き教室。先に駆け込んだ倉間が教壇の近くで荒い息を吐く。 こっちだって相当消耗しているが、泣きながら走っただろう相手の比ではない。 荷物を抱えながらしゃくり上げ、流れ続ける涙を不思議そうに片手で拭う。 俺の姿を認めると、うわ、と呟いて後ずさった。

「なんで泣いてんの」
「俺も知りたいです」

マジ止まんないんで、なんて言いながら更にじりじり距離を取る倉間。
泣きじゃくるのはともかく、返答は割とまともだ。後ろも見ないで下がると段差でこけるぞお前。
教室を中ほどまで進んで見据える。鼻をすする音が静かな部屋に響く。

「なんで逃げた」
「構内で泣くとか気まず、」
「なんで逃げたつってんの。俺から」

意識しなくても責める声になる。当然だ、何もかも解せない。
言い訳を遮るとまた涙が溢れ、大きくしゃくり上げた。苛立ちが増す。

「迷惑かけたくないんで」
「は」

泣きが入った割に明瞭な声は想定外の答えを投げて寄越した。

「俺がいらないんだったらなるべく視界にも入りたくないっていうか」
「おい」
「早く消えたほうがいいなって」
「泣きながら言うことがそれかよ!」

手近な机を蹴りつけた。椅子が煩く鳴り、倉間が震え上がる。
掌を叩きつけて声を張り上げた。

「無理とか思うのはいっつも俺で、お前は頷くだけじゃねーか!」
「そうなったのは俺が悪いんだろ!」

怒鳴り返され、思わず止まる。
ハッとした様子の倉間が表情を歪め、絶望を滲ませた声で紡ぐ。

「アンタが無理って思ったのに、嫌とか言ってどうすんだよ…」

隠しもしなかった泣き顔を、ここにきて初めて片手で覆った。
涙に感情が追いついたように、静かに泣き続ける。頭が真っ白に、なった。
この数年間、俺が見てきたものはなんだったのか。 見えなかったのか、見なかったのか、それとも、こいつが見せなかったのか。 呆然と見つめるしかない俺に構わず泣く倉間が、俯いたまま撥ね付ける。

「頼むからほっといてください」
「ばっ…!」

叫びかけて歯軋りで抑える。暴言をぶつけたいわけでもない。 飲み込んで飲み込んで足を動かす。もう逃げる素振りもない倉間へ近づいてく。 気が急いて机に何度か当たる、構っていられずそのまま進む。 顔を押さえる片手を掴み上げる。反射で抵抗する倉間の腕から荷物が落ちた。 足元に散らばる音も耳障り、涙で濡れる顔を覗き込んだ。

「俺はお前が何も言わないから…っ!」

言い募って、息が止まる。言わなかったのは俺自身、サインを示しても滲ませても、口にしなければないのと同じ。
そうだ、同じだ。倉間が与えないと思ったその反面、俺はそれをこいつに伝えたことがあったかどうか。

「くそっ、」

吐き捨てる自分を、倉間は抵抗もせずに見ている。 未だ泣きながら、ただ、目も逸らさずに。
胸が痛いほどに、苦しい。
掴んだ手に力が篭る。自分が引き起こしたことなのに無力で、どうしたらいいかわからないのが悔しい。

「……泣くなよ。俺の知らないとこで泣こうとすんなよ」

頼み込むような声は情けなく揺れて、それ以上何も出来なかった。肩が震える。
倉間の瞳が視線を受け止め、大粒の涙を流したあと、自由な手をそっと伸ばしてくる。 身動きの取れない俺の頬を優しく撫でた。体温に眩暈がして、ゆっくりと擦り寄る。 ほう、と息を吐いた倉間が、喋りにくそうにしながら音を繋ぐ。

「すいませんでした」
「何、に?」
「いろいろ、全部」

俺だって頭が働かない。謝られた意味もよく分からない。
掴んだ手首を解放し、止まらない涙を今更ながら拭う。 少しだけ、倉間が笑った。抱き締めたい衝動に駆られる。

「だから、」
「ん?」

続く言葉に、答える音は我ながらひどく甘い。
ようやく流れる雫のおさまり始めたその顔が、心配そうに俺を覗き込む。
両頬が包まれ、真摯に告げる。

「泣かないでください」

自分の口元が自然に緩む、ふっと笑いが零れ、額を当てた。

「お前が言うんだ?」

伸ばすことの許された腕を回して、待ち望んだ温もりを抱き締める。 相手の腕も背中へと伸びて、密着する感触に吐息が零れた。 長らく満たされなかった水が、満ちていくのを感じる。
気付いてしまえば、何のことはない。
愛情とは、与え合うものだ。


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