処方箋を出すまでもなく


夕方の少し遅い時間に帰宅した。
そろそろ電気をつけなければ無理がある薄暗さの中、記憶に沿ってスイッチを探る。
ぱちん、と手応え。すぐさま照らされる眩しさに一瞬目を眇めるが、それより現れた人影に驚いた。

「南沢さん、居たんですか」

ミニテーブルの前のソファ、座り込んだ相手は今気付いたように視線をめぐらせる。
無表情にぽつり。

「おかえり」
「はい、ただいま」

反射で答えたものの、既に南沢はこちらを見ていない。落ちる沈黙、何故だか気まずい。
まず上着を脱ぎたいのだが、どうにも動きづらい。このまま横切って部屋へ行くのも憚られる感じだ。
体感時間およそ十分、実際は少しだっただろう一時停止を解いたのもやはり相手で。
テーブルへ伸ばした腕が白いマグカップを掴み、立ち上がった。とっくに冷め切ったと思われる紅茶が中で揺れる。

「部屋にいく、気にするな」

声を掛ける前に宣言が落ちた。硬質を装った雰囲気に唇が動く。

「俺が部屋いきますよ」

歩き出しかけた相手が微妙な角度で止まる。
距離を縮めるとやはり視線を逸らしたまま、斜めに俯く。

「や、違う、お前がダメとかじゃなくて」
「わかってます」

少し焦ったような声はまだ硬く、思わず被せる台詞が強くなった。
ぐ、と詰まった彼が片手で前髪を掴み、忌々しく吐き出す。

「当たりそうだから、やなんだよ」

聞き終わるが早いか腕を伸ばして抱き付いた。
上着のおかげでもこもこするが、安定を求めて力を込める。
ぎゅう、としがみ付いた形になり、相手は沈黙。どうやら硬直したらしい。

「一人にするのやめました」

勢いで動いたので後付け宣言。ややあって途切れがちな声が聞こえる。

「いまカップ持ってるから」
「はい」
「ちょっと離して、くれるか」

棒読み手前の頼りなさを受けて、するりと腕を解く。
無表情に固まった南沢が油の切れた歯車のようにぎこちない動作でカップを置いた。
吐き出す息は小さな深呼吸。一拍のち向き直り、しっかりした力で抱き込まれる。
今度届いたのは安堵の吐息。

「お前がかわいすぎてもうどうでもいい…」
「予想外に簡単で困惑します」
「そうだよ簡単だよ。あー、くそ、かわいい」

悔しさも混じる呟きはもはや独り言に近い。折角なので擦り寄ってみたところ、頬へ鼻へキスが落ちる。
啄ばむ仕草が唇を捉え、舌がなぞるのに合わせて薄く開いた。

「ん、まて、」
「?」

差し込む舌先が止まり、押される肩。疑問符を浮かべて見返すと、じんわり赤く染まった彼が真剣に言う。

「ベッドいこう」
「!」

思わず跳ね上がる自分と気まずそうな相手。思案は一秒も、否、する必要もなかった。

「、はい」

控えめに頷いてすぐ、身体が浮いた。荷物のごとく抱えられていると遅れて気付く。

「え、ちょ、」

混乱の倉間に南沢は答えず、大した距離もない寝室へ連行。
そこまで気遣うなら普通に歩けばよかっただろうというくらい丁寧な仕草でベッドへ下ろされ、
圧し掛かってくる相手の顔はかなり切羽詰っていた。

「だ、だいじょうぶですか」

頬へ手を伸ばす、触れる皮膚が熱い。すぐ掌が重ねられ、目を閉じて愛しげにすりついてくる。

――これは恥ずかしい。

何のスイッチを押したのか、その日の彼は性急なくせにやたらと手つきがいつもに増して優しかった。
それが心地良くて、欲の赴くまま身体をゆだねる。

結果、起き上がれないレベルで疲労困憊。いつ意識が落ちたか不明だが、窓の外が暗いので順当に考えて深夜だろうか。
起き抜けの視界で天井を確認し、段々思い出す状況を整理していると自分を呼ぶ声。と、引き寄せる腕。

「まだまだ寝てていい、俺も寝る」

眠そうな口調につられて瞼が重くなる。もしかして起きていたのか、それとも。

「つらいだろ、ごめんな」

滲む自責に一瞬だけ覚醒、反射で音を紡ぎだす。

「俺がねだりました」

少し緩む腕、僅か身じろいで見えなかった顔を覗き込む。
そこにはいつもの、自分にだけ許した無防備な表情――先程の発言で幾らか固まっているけれど。

「元気になって良かった」

言葉と一緒に無意識で笑みがこぼれ、目の前の相手は呻き声と共に力なく掌で顔を覆う。
指の間から覗く色はもちろん、熱によるものだ。


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