すべてこともなし


「銭湯?」
「そう」

授業終わりが被った日の帰り道、相手の口から出た単語に理解が追いつくまで数秒掛かった。

「南沢さんち風呂ないんすか」
「来たどころか泊まったことあるだろお前。アパート一時断水」
「それはまた」

なかなかに大変な状況である。 幸い、水道管の点検も兼ねて一日だけだそうなので帰ったら寝るだけに近い今日はマシだろう。 完全に水が使えないわけではなく、貯水タンク分はあるからトイレのみ使用可のお達しがあったそうだ。 話半分で聞いてれば、いきなり自分へ振ってくる。

「お前もいく?」

なんとなく勢いで頷いていた。


「おー、なんとも昔ながら」
「初体験?」
「や、スーパー銭湯なら」
「それもはや別施設だしな」

先導されて辿り着いた場所は今時珍しい木造の建物。 大きな煙突と分かりやすい『湯』の文字。漫画でみるような銭湯だ。 開いている入口を潜れば、番台から声が掛かり思わず会釈する。 中途半端な時間帯のせいか他に客は居ない。黙々と脱いで手近な棚の籠へ服を置く。 入浴セット片手に浴場へ足を運び、湯気の中浮かび上がる絵柄に声を上げた。

「すげ、マジで富士山」
「どんな感想だ」

ふ、と笑う気配に後ろを睨む。 ガラス戸を閉めた相手がさっさと洗い場へ向かい、それに倣った。
湯船に浸かる段になって、ぼんやり思っていたことを口にする。

「貸し切りみたいのはいいんすけど、経営がリアルに心配ですね」
「確かに」

大きな風呂というのはやはり開放感、人心地ついてきょろりと見回す。 年季の入った感じがまさに銭湯だとか緩い感想が頭の中に。 静かに堪能していると、隣も静かに息を吐いた。なんとなく視線を向けると目が合う。 よくわからない無言が気まずい。

「……なんですか」
「やーこういう状況でうわ、とかならないんだなーって」
「は」

発言を噛み砕くのに時間が掛かる。

「過剰反応されたら俺もキョドるけど」
「キョドんのかよ!」

ようやく察した意味を踏まえ、水面を叩きつける。 掌がばしゃんと水を弾き、自分にも相手にも微妙に飛んだ。
はあーっ、と大袈裟に溜め息をついて落ち着こうと努力する。

「風呂くらいで今更どうにかなりませんて」
「脱がす時は恥ずかしがるのに」
「だまれよもう」

何故言う、いま言う、アンタ何なんだと罵倒が幾らでもわきあがっていく。
しかし思いっきり反響するこんなところで叫びたくもないし何より馬鹿馬鹿しい。

「いや俺もさすがに公共の場所でどうこうな気は起こさないけどな迷惑だし」

怒りの兆候を察したのか変わらぬ淡白さですかさずフォローが入った。
口元を引きつらせながらじっとりした視線を向ける。

「アンタまじさー、」
「そういう気起こしてたらもう何かしてるだろ頭使えよ」
「よし湯船に沈め今すぐだ」

やれやれ、とでも言いたげな様子に幾らかの殺意が芽生えたのは仕方ない。
付き合ってられずに立ち上がって湯から出る。 思ったより長い時間浸かっていたせいか、少しだけふらりとした。

「倉間、」

危なげなく支えたのは相手の腕。感謝より悔しさが勝ってしまい、礼も言いづらい。
抱き留めた姿勢で耳元へ唇が寄り、ちゅ、と触れた。

「かえったら、な?」

反射的に入れた肘鉄を耐えたことだけは評価していいと倉間は思う。

文句を量産したい気持ちを抑えながら脱衣所で身支度を整え、備え付けのドライヤーで湯冷めしない程度に乾かした。 コーヒー牛乳まで飲むお約束をやったあたり、十分楽しんだ気がしないでもない。

「おじゃましまーす」
「はいどーぞ」

気軽に潜るドアは本日二回目。 用意で一旦戻るのも面倒だろう、そんな心遣いをありがたく受けた一式のおかげで舞い戻る羽目になる。 荷物を回収してさっさと帰ろうと考える自分を置いて、南沢が台所へ。

「茶ぁくらい飲むだろ」
「ああはい……って、ええ!?」

実に自然な手つきで蛇口を捻る。問題なく出てくる水道水。

「断水は?!」

トイレ以外使うなって言われてるんじゃないのか、そんなさらっと破っていいのか。
あんまりな行動に驚愕すると、ぱちぱち瞬く相手の瞳。ついで思い出したように口を開く。

「あー、銭湯行きたい気分ってたまにあってな」
「息をするように嘘吐くのやめてください」

頭が痛い、本気で頭痛がした。

「や、あそこマジでたまにいってるぞ」
「そこじゃねえよ!!」

顔色も変えずに答える様子に声を張り上げる。
飲み物を用意する手が止まり、足早に近づいてきて目が細まった。

「本当に断水だったらお前連れてくるわけないだろ」

中指が顎を持ち上げて、唇が綺麗に弧を描く。

「今から汚すのに」
「本気で死んでください」

手の甲で跳ねつけると、愉快げに肩を掴んで引き寄せられた。
睨みつけながら唇を吸う。


戻る