いつもの朝


冬の朝は辛い。布団から這い出て外気に触れるだけで試練といえる。普段はあまり履かないスリッパを愛用するのは自衛の為だった。
寒さで幾らか早足になりながら洗面所に到着すれば先に起きたらしい――まあ布団に自分しかいない時点で分かっていた――南沢がタオルに顔を埋めている。少し前へ傾げたぶん、襟足の掛かるうなじが見えた。床マットもあったので素足になってそろりと近づいていく。
目標捕捉、冷えた指先を襟首へ突っ込んだ。

「っっ…!」

タオル越しに届く声にならない叫びもどき。
ミッションコンプリートとばかり満足げに頷く倉間へ、ぎぎぎと振り向く視線は恨めしげ。

「おまえな……」
「静電気とこれはお約束かと」

悪びれもなく答える態度、迎える溜息。握るタオルを洗濯カゴへ投げ入れて、向き直る相手。

「そうか冷たいか暖を取りたいかよーしこい」

口の端を上げてにやりと笑った。この顔はあまりよくない。思わず一瞬身構えた隙に腕が伸び、手が取られる。
しまった、と思った直後、導かれた箇所は彼の頬。

「うわ、ほんと冷えてる」

それはさっきまで水を触ったアンタもだろというツッコミとはしかし声にはならず、押し付けられた掌へ伝わる相手の体温が混乱を招いた。何度かすりつけるうちに馴染んでいくのは平均化されているから、のはずだがどうも熱く感じるのは何故だろう。十分温まった手へキスが贈られ、指先を唇が食む。

「ちょ、」

思わず振り払う仕草に相手は逆らわず解放され、じりじりと後ろへ距離をとる。

「今からベッド戻る?」

弧を描く口元に手近な洗濯ネットを叩き付けた。


発症


今年最後の一週間に入った途端、風邪を引いた。
正確には疲れが出たと言った方が正しい。
咳はほとんどないが喉が痛く、少し熱もある。残った講義を終えたのがリミットだったか玄関をくぐったらぐらりと揺れた。眩暈は一瞬で、歩けないほどでもなかったが目撃した倉間に強制連行されベッドへ転がる。
投げつけられた寝間着に着替えてぼんやりしていると、食欲はあるかと声がかかる。緩く首を振った。

「でも薬飲むんで何か入れてください」

あと水分、と差し出されたペットボトルを受け取る為、上半身を起こす。ぺたり、額へ当てられる手のひら。

「…少し熱い」
「実は昨日から微熱が」
「はあ?!」
「いや薬は飲んでた…飲んでた」

心配げな台詞につい事実をこぼすと跳ね上がる眉。険しい視線に圧されて言い訳が口をついて出る。むう、と唇を尖らせた倉間がふいに真顔になり一言。

「まさか俺が首筋アタックしたせいで」
「それで引いてたまるか」
「ですよね」

それだけ会話できたら十分です、と残して部屋を出て行く。小走りに戻ってきたかと思えばフィルムをはがす音。ぺたん、貼りついた冷たさはジェルシート。

「未開封が残ってたので」

肩を押され、また布団に沈む。

「食べれそうなら言ってくださいね」

すぐ作ります、の語尾で手首を掴む。離れるつもりだったろう倉間が驚いた顔。

「も、少し」

身体はだるいしそろそろ思考も危うくなってきた。それを察して寝かせてくれるつもりなのも分かる。

「寝るまで、」
「います」

力のあまり入らない拘束を解き、ぎゅっと握り返してくる手。安心が一気に広がって、名残惜しいながらも目を閉じた。


甘やかし


冷凍した白米の処理はもっぱら雑炊である。日々少しずつ余るそれをたまにまとめて卵雑炊、もしくは鍋の締め。
南沢が風邪でダウンしてから、倉間の食事もおかずはさておき同じになった。いちいち一人分炊くのも面倒だし、何より思ったより残っている。残飯処理と病人食が平行できるのなら問題はない。
本日のメイン、塩鮭をほぐして散らし、レンゲで掬ってもぐもぐと咀嚼。程よい塩辛さが口内に広がる。満足と共に先刻からの違和感に苦言。

「見られると食べ辛いんですけど」
「暇なんだよ」

起き上がっても支障ないくらいに回復したものの、完治とは言い難い南沢がうるさいのでなるべく傍にいるようにしている。今も食欲がない相手が寂しそうにするから自分だけ食べているわけだ、目の前で。
体調を崩すと人恋しくなるのはわかる、心細いのもわかる。基本的にべたべたしてくるのをはねつけている手前、風邪の時こそ優しくしようとも思う。
 
「食欲ないけどお前が食べてるの見ると食べたい」
「なんなんですか」

だがしかしうざい。
甘えのタガが外れているのか、いつにもまして心のままだ。抑えてあれなのか、と通常を思い出しても頭が痛い。

「はい」

鮭を心持ち多めに掬ってレンゲを差し出す。
湯気の立つ、一口には多いそれを見つめ南沢が固まる。

「食べないんですか」
「た、たべる」

大人しく開けた口へレンゲを寄せてから、やらかしたことに気付いた。けれど今更引き返せもしないので、照れながら食べる彼から目を逸らす。


調子乗り


もう治ったと申告しても、いきなり動くな様子を見ろで一蹴された。もっともな意見でもある。仕方ないから年末に向けての買出しあれこれを倉間へ任せて家にいた。
休み癖というか甘え癖というか、この数日甲斐甲斐しく世話を焼いてくれる相手が嬉しかったので普段は自粛するストッパーがどうにも働かない。
大抵は口にしてから後悔するのだが、倉間が嫌な顔もせず、は言い過ぎにしても叶えてくれるおかげで増長甚だしくなってきた。

「雑炊食べたい雑炊」
「はいはい」

多分もう白米でも食べられる気はするけれど、倉間の作る雑炊がしっくりくる。初日は塩のみのお粥、少し食べられるようになったら醤油だけで味付けた雑炊、そして卵雑炊。段階があったのもあって食べ飽きた感はしない。今までも何度も食べたはずなのに、風邪になってからの雑炊は格別だった。漬け物だったり、ちりめんだったり、添えられるものにも気配りがある。
五百円で買った白い土鍋はこのメニューで大活躍。鍋物ならもう一回り大きい鍋で作るのだが、小さいのも必要だという倉間の主張は大変正しかった。色々思い起こしているうちに、よそわれた茶碗が差し出される。受け取ろうと両手を伸ばして、ふと止まる。

「南沢さん?」

首を傾げる仕草が可愛い。どこか浮かれた思考で口走った。

「あーんして」

ぴしっ、ひび割れたような音が聞こえた錯覚。さすがに調子に乗ったかと我に返るが後の祭り。
おそるおそる窺うよう覗き込む。俯いた顔はよく見えない。片手に茶碗、もう片手にレンゲを持った倉間が立ち上がり、机を回って隣に座った。

「え」
「ほら、」

再び差し出されるのはレンゲのみ、一口分掬った雑炊から白い湯気。

「向かい合う席じゃやりにくいんですよ!」

自棄で放たれた言葉と赤い頬、熱がまた上がるには十分すぎた。


お返し


その日は個人的な用事があって家を空けた。正確には南沢が風邪で倒れたため先送りにしていたのをギリギリ年内に入れたともいう。まあお馴染みの面子なわけだが、いっそ年明けでもいいのに、遠慮するなと追い出された。
幾らか早めに別れて帰路につく。理由は年末特有のあれである。つまり大掃除。普段からそこそこ片付けてはいるものの、やはり綺麗にして新年を迎えたい。根付いてる意識は実家での経験によるものだ。
鍵を開けて玄関、そしてキッチン兼ダイニングを見て瞬いた。

「マジで」

それはもうぴかぴかだった。流しはもちろん、換気扇のところまでステンレスが輝いている。テーブルはいつもより綺麗に見えたし、床も塵ひとつない。食器棚のガラスも拭かれていて、中もきちんと揃っている。風呂もトイレも以下同文、リビングの絨毯まで行き届く清掃だ。
これは寝室も確かめるまでもないことを察し、先ほどからソファで寝こける功労者の傍へかがみ込む。頬をつつくと眉がほんの僅か動いた。

「……何してんですか」

拗ねたように呟いた音は静かな部屋によく響き、相手の瞼がぼんやりと開く。

「くらま?」

自分を認めた相手の顔がふにゃりと緩んで。

「おかえり」
「なにがんばってんですか」

嬉しそうな微笑みに挨拶を遮ってなおも繰り返す。たぶんむくれた表情をしてる、まったくもって可愛げがない。それ以上何も言わない倉間をしばし見つめ、南沢の手がゆっくり伸ばされた。くしゃり、触れて撫でる感触は優しい。

「いるもんとかお前に任せてたし、掃除くらい」

な?と穏やかに囁く彼に唇を噛む。すぐさま叱るように指がなぞった。

「こーら、」

悔し紛れに吸い付くと、眠たげな瞳が開く。
そっと指が離れて、頭の後ろから引き寄せる力。

「吸うならこっち」

誘う唇へちょっとだけ歯を立てる。ふ、と笑う息と視線に自分から舌をねじ込み、絡め取る強さで溜飲を下げた。


本年も


テレビのカウントダウンで年が明けた。
どちらともなくお互いを向き、視線を交わす。無意識に伸ばした手を握る。言葉はなく、笑い、柔らかく額を当てた。

「二回目、ですね」
「ん」

重なる部位の暖かさにまどろむ感覚。
鼻先をこすって触れるだけのキスをした。

「初詣、いきます?」
「お前明日行くだろ」
「南沢さんとは別ですよ」
「知ってるけど、うちがいい」
「ふは、」

二日三日は実家に帰る、つまり四日まで会えない。ならば元旦をまったり過ごして何が悪いのか。
笑いを零した倉間はくすくすと止まらない様子で、わしゃわしゃと髪を掻き回してやった。身じろぐ相手とじゃれあってしばらく、胸にもたれ込んできたのち小さく応える。

「おれも、うちがいいです」

わきあがる愛しさを抱き締める力に変えて、髪の毛に唇を寄せた。

「うん、うん」

体温と幸せを堪能していると、おずおず上げられる顔がねだる色を帯びて。

「南沢さん、もう少し、キス」

したい、の言葉を飲み込んで、貪るように口付ける。


結果論


正月休みもあと少し。湯のみ片手に見るともなしに液晶画面を向いていると、ぽふり凭れる相手の頭。

「甘えた継続ですか」
「駄目なら考える」

映像の切り替わる暗闇で一瞬、二人が映る。
自分の肩へ頭を置く南沢の姿なんて、あの頃想像すら出来なかった。
湯のみを机に乗せ、首を傾ける。こつん、と触れて寄り添い合う。自然、笑みがこぼれた。

「なに、」
「や、なんていうんですかね、こういうの」
「幸せ?」
「それはわかってます」
「デレデレだな」

一言多い相手へ頭をぐりぐり押し付け、思い出したていで音にする。

「帰る家が変わるほど努力してくれた訳ですし」
「え」
「初志貫徹ですね、ありがとうございます」

完全に沈黙した彼は動かない。凭れを解いて、前からのぞき込んでやる。いつかの得意げな笑顔を今度はこちらから。

「You see?」
「I see……」

斜めになったままの相手は赤く染まって口元を押さえる。
昔よりは流暢になった発音は綺麗な返答を頂いた。


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