こっちへおいで、とただ一言


「…いやだ」

ぽつん、と落ちた言葉。しまった、なんて考えても遅かった。

「やだやだやだやだいやだっ」

癇癪のようにはちきれた拒否は悲鳴と同義。振り回す腕はむちゃくちゃながら十分な威力を持っているのは味わったことがあるから理解しているし、それが自分へクリティカルヒットした時の相手の後悔も痛いほど予想できる。感情のスイッチが極端な倉間は、ひとたび違えてしまえばパニックに陥った挙句の自滅一直線。更に自己嫌悪で深く深く沈んでいくのでストップをかけないと洒落にならない。
いま現在、当り散らす態度で跳ね除けた事実から青ざめての縮こまり、そして距離を取ろうとしつつも逡巡して結局は動けず震える肩と腕。指が乱すシーツは絡み付いて見え、血の巡りの悪さを心配する。怯えて伏せた顔、泣いているんじゃないかとベッドの上を少し這うものの過敏な反応。元々遠くも無いのだから動けばすぐ分かる。近づいた自分から逃げるみたいに膝へ顔を埋めてしまった。ここで離れたりすれば、ますます取り返しがつかなくなる。極力ゆっくり腕を伸ばし、頭へと。
緩やかな触れ方は細心の注意を払って、まずは掌で柔らかく乗せるように撫でた。また肩が震えたけれど、さっきよりは大分マシだ。何度か繰り返すうち、膝を抱える腕がぴくりと動く。

「いや?」
「……じゃ、ない」

静かに声を落とす。幾らかの間を空けて帰った返事はひどくか細くも否定ではなかった。安堵を抱え、もう少し身を寄せていく。撫でていた頭へキスを降らせ、髪だけでなく頭皮へ押し付けるよう唇を当てる。時折、小刻みに動くのはもうマイナスの感情ではないはずだ。
肩をするりと触って耳元へ囁く。

「顔は、だめ?」

一際大きく跳ねた仕草に笑いを零す。名を呼べばおずおずと顔を上げ、窺うような表情で瞳を潤ませている。瞬時にわきあがる衝動は何とか抑え、まずは額へ口付けを。回数を重ね、頬に移る頃、皮膚は随分と温かくなっていた。赤く染まった熱、愛らしいばかりの相手の顔を両掌で包み込む。

「好きだよ」
「っ……」

泣く寸前かと思える瞳。抱き締めるつもりで腕を回そうとした途端、肩を掴んで引き剥がされる。つい、瞬いての沈黙。再び混乱へ落ちた倉間が必死に首を振った。

「ちが、ちがくて、」
「わかってる」

安心させるように笑いかけ、唇を寄せる。

「あ、」

開けられた隙間からそのまま舌を入れ、見開いた表情へ更に微笑んで絡ませた。粘膜が擦れるたび漏れる息は溶けて聞こえ、体勢の崩れそうな相手を導くよう腕を引くとあっさり凭れこんでくる。ようやく捕まえた体温をしっかり抱えて、くぐもった音を聞く為に吸い上げた。

「ん、ん…、ふ」

甘い呼吸で縋る倉間が指で肩を掴む。うなじを中指で辿ってやると喉が鳴った。飲みきれない唾液が口の端を僅か伝い、舐め取りながら名残惜しく離して息をつく。腕の中でくったりするのを慈しもうと覗き込んだところ、ぼんやりした視線。

「めちゃくちゃが、いい」
「……またそんなこと言って」

舌足らずに告げる内容は誘惑以外の何でもなく、思わず非難めいた本音が出る。だが一度傾いた天秤というか砂時計の砂というか、倉間の甘えは一時停止など知らず、
なおも自分を呼び続けた。

「南沢さん、南沢さん、南沢さん」

擦り寄って密着、ねだる色、卑怯でしかないのに抗える気がしない。だいいち、勝手な表情筋が満面の微笑みなど浮かべてしまったのだから結果は見えた。

「ん、じゃあめちゃくちゃかわいがる」

期待で満ちるその艶が、いつも狂わせて虜にする。


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