日常とはかくありき


合鍵を渡された。
いや、そこまで…と反射的に口してから気付く。
これは拒否権がない。
微かに拗ねたような相手に胸中で溜め息をつき――正直に反応すると大層面倒なので――手のひらを差し出した。
乗せられた金属の重みは自分が引き起こした結果だ。

貰ったものの使う機会がなく数週間、ついにその時がやってくる。
講義がずれ込んで帰宅が遅くなるとのメールが一通、先に入っとけとも追記がないがつまりはそういうことだろう。
通いなれてしまったアパートへの道すがら、また息を吐いた。

同窓会での衝撃告白から2ヶ月、実に平和なお付き合いが続いている。
予想通り臆病をこじらせた南沢が自分へ触れてくるのは確かめるために他ならない。
抱き締めて動かず、しばらく一言も発しない。
最初は何かしら声をかけたものだが、途中で無駄と悟って放置した。文字通り堪能されているわけだ。

高校生の時、一度だけ付き合った彼女がいた。それは確かに恋だった。
可愛いと思ったし、一緒にいて温かかった。ただ、キスをしたその瞬間、何かが違うと気づいてしまった。
その子も感じ取ったものがあったのだろう、程なくして「ごめんね、ありがとう」の言葉を受け取る。
さよならはなかった。
調子に乗らせるから黙っていたが、要するに自分の根底にも南沢が深く根を張っていたのである。
暫定ファーストキスは真実の初めてに相違なく、 聞いた時も何をやっているんだこの馬鹿は、と思いつつ嫌な気持ちなどひとかけらもなかったなんて ――――墓場まで持っていこうと心に誓う。

取り出した鍵を差し込み口へ。カチャリ、回すと手応え。ドアノブに手を掛けて、ゆっくりと開く。
自分で開けるのがこんなに気恥ずかしいものとは思わなかった。しばらく使いたくない。
玄関で靴を脱ぎ、リビングへ通る。荷物の少ない1LDK。
その空間に、何故か地味に増えていく倉間の私物。
歯ブラシ等、必要だからと買ったものが確実に部屋の一部として溶け込んだ。
諸事情で幾らかの衣服も置いてある。これは、明らかに、いや、さすがに考えざるを得ない。

「住む気か俺は、いや住まねーよ」

自分で状況に突っ込みを入れて、荷物を置いたのち台所へ向かう。
ごく自然に冷蔵庫を開けてミネラルウォーターを取り出した。
流しにある洗い済みのコップへ注いでリビングに戻り、ソファへ座って思わず唸る。

「これ、通ってるだけでほとんど同じじゃねえ…?」

完全に無意識で取った行動を思い返し、頭を抱えたくなった。

ほどなくして復活し、買ってきた雑誌を読み終えた頃、南沢が帰宅する。
顔を上げて入口を向いた。

「あ、おかえりなさい」
「…ただい、ま」

何の気なしに言った挨拶が、相手に妙な間を与えた。
疲れているのかと思いかけ、明らかに自分を見てだと気づく。
待たせておいて、解せない。

「なんすか」
「や、……お前がいるんだな、って、思って」

思わず冷たい反応になった倉間を気にもせず、乏しいというか止まったような表情で細切れに零す、言葉。
状況を把握するのにまた微妙な沈黙が落ちる。

「照れんな!」
「なんでキレられたんだ」

硬直解除の第一声は罵倒だった。
勢いに、うお、と軽く身を引き、部屋に足を踏み入れたままの相手がじっと見つめる。

「もしかしてお前、顔赤い…?」
「っ!!」

つかつかつかつか。無言で早足、呟いた後の動きは速かった。
逃げ遅れて往生際悪く顔を逸らす倉間の肩を掴む。

「倉間」

ぐぐぐぐ、と割合間抜けな攻防戦。
片手が頬へ添えられて、真面目な声がまっすぐに。

「こっち向け」
「いやです」
「…向けよ、」

少しトーンの落ちた音に必死さを感じて仕方なく向き直る。
視線を合わせる気はなくちらりと掠めると、安堵したように顔を寄せてきた。

「俺だけかと思った」
「この期に及んで」
「だってな、」
「だってじゃねーよ」
「ん、」
「黙るな」

掛け合いは不機嫌と喜びの二重奏。
認めておきながら、ぶっきらぼうな倉間の態度に相手の表情が柔らかく崩れる。

「わがまま」
「アンタにだけは言われたくないです」

ようやく見つめ合う形となり、近づく唇を甘んじて受ける。
凭れてくる体重に心中で溜息をつくしかない。
どうしようもないのは、きっと自分だ。
嬉しそうなこの男を、甘やかし続けてしまうだろうということはよくわかった。


戻る