韻を踏んで思い知る


短い小休止の時間にそれは起こった。

「隙ありっ」

軽快な台詞と共に忍び寄った背後から浜野が南沢の膝裏を狙う。要するに『膝カックン』である。しかし標的は予測していたのか掛け声の時にはするりと位置を変え受け流した。若干たたらを踏んだ浜野に向かって南沢が給水ボトル片手に振り返る。

「言っとくけど声上げた時点でお前に隙が出来るからな?」
「えー、だって基本じゃないですかー」
「何の」

少しばかり呆れを含んだ発言に不服そうな襲撃者。突っ込みと同時、首へかけたタオルに毛先から汗が落ちる。
なんとなく視線を向けていた倉間は思わずその動きを目で追ってしまった。

「怒らないでやるから無駄なことすんなよ」
「ちぇー」

しっしっ、と追い払うような仕草に頭の後ろで腕を組みながら戻ってくる友人。
繰り広げられた寸劇を思い出し、心から呟く。

「お前よくあんなことできるな……」

むしろ浜野だからあの対応だった可能性も高い。見逃したというジェスチャーをしてくれるサービス自体がすごいことだと思う。まあ南沢に悪戯を仕掛けようなんて考えるのもこの友人くらいのものかもしれないが。
興味のない人物であれば視界に映すかさえ危うい先輩をもう一度ちらりと見る。どこ吹く風で自分もドリンクを飲んでいた浜野がひらめいた様子で指を鳴らす。

「倉間だったらスキをつけるかも!」
「やらねーよ」

即答は不満げな顔でもって迎えられた。だがそこで諦める彼ではない。
そんな根性は他に使えと言いたいどころか言ったけれどしつこいので、仕方なしに囮役を請け負う羽目に。
練習も終わって片付けの折、質問がある振りをして南沢へ声をかける。実際、聞きたい話も本当にあったから嘘ではないのが救いか。囮であることを忘れかけた頃、浜野が今度は静かに接近する。標的と向かい合う倉間には丸見えだ。
いよいよ実行、の手前で肩を掴まれ横に押される。斜めに一歩動いた隣では勢いでつんのめった浜野がバランスを崩して地面に座る。掴んだ手を離し、見下ろして一言。

「倉間にぶつかる」
「ひいき!」
「いや巻き込まれたら被害者だろ普通に」
「共犯なのに?」
「主犯が言うな」

さっさと立ち上がり問うてくる浜野の額を人差し指がつつく。
あたー、だとか大袈裟に笑う友人と肩を竦める先輩を見比べて、ただただ疑問符を浮かべた。


***


時が過ぎ、成長し、変わっていく関係は意外な形で落ち着くことになる。
流しを水が叩く音、食器の触れ合う控えめな響き。視界の景色を確かめて、やはり瞬く。
台所で洗い物をする相手を見る日が来るとはさすがに予想しなかった。
当番制ゆえ、夕食を作った倉間は休憩の権利。背中を見つめる数分で、思い出のひとつが浮かび上がる。
そつのない、先輩。そのイメージは今もまだ崩れきっていない。

気がつけば立ち上がり、そろそろと近づいていた。
エプロンの結び目が雑、濡れないようつけるだけマシなのか。家では横着さ数割増しの同居人をまじまじ見つめる。
食器を置いたタイミングを狙って、膝で軽く押しに行く。

「う、わ」

かくん、簡単すぎる手応えで相手がよろめいた。
こけるほどでもなかったが心底びっくりした様子で半身を向けてくる。

「なに、おまえ、いきなり」
「な、なんとなく」

一瞬上擦り、むしろ自分のほうが驚いてしまった事実に居た堪れない。
成功すると思っていなかったぶん、どうしていいか混乱する倉間へ伸ばされる優しい手のひら。
くしゃり、撫でられて髪を梳く指。思わず目を閉じれば、近づく気配のち、ごく自然に唇が触れた。
開けた瞼の先で、柔らかく微笑む瞳。

スキをつけるもなにも、スキだらけ。


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