ふちとなりぬる


「失礼しましたー」

間延びした挨拶で職員室を出る。日誌を提出してしまえば日直の仕事は終わりだ。 資料運びやノート集め等、今日はやたらに多かった気がする。 いよいよ部活だと伸びをしながら歩き出す。放課後の校舎は人が少なく、 グラウンドから運動部の掛け声が聞こえる。 特別教室を横切りながら何とはなしに首を回すと視界を誰かが横切った。

「あ」
「ん?」

自分の目を疑う前に声が出た。
通り過ぎるはずだった人物が立ち止まり、おや、という表情で向き直る。

「暇なんすか、月山国光」

次に口をついて出たのは混乱していたにしてもあんまりな一言だった。
帰宅途中にそのまま来た、そんな様子の南沢は肩にかかる鞄の紐を弄るようにずらし、 幾度か視線を彷徨わせたのち、いやに軽い口調で答える。

「や、実を言うとスカウトされて戻ってきたー、みたいな」

数秒の間。

「へぇ…それはそれは」

野球部が打った音が外から響き、重なる声は感情があまり滲まず、低い。
言いながら視線を落とした倉間へ思わず一歩踏み出した南沢の耳に届いたのは物騒な言葉。

「刺したい」
「凶器はなんだ」
「今から殺る人に教えるのは…」
「確定方向かよ、つかいま嫌な漢字当てたろ」

リズミカルな応酬は空々しいようで台本にしては少し重い。
微妙な距離感を保ったまま軽口を交わすも、倉間は目も合わさない。

「ま、カッター持ってるのも注意されかねないご時世ですしね。
殺るまでいかなくても、いざとなったらボールペンで刺すとか」
「無駄にリアル!お前怖ぇな!」

何事もないような顔で並べられた現実味のある発言についつい南沢の声が大きくなる。
ふっ、と笑った倉間を見て、大袈裟に肩を落としてみせた。

「低血圧にツッコミさせんなよ疲れる…」
「夕方ですよ南沢さん。スポーツマンが低血圧もあるかクソが」
「敬語の後に罵倒すんのやめろほんと。ここまでノッた俺はむしろ優しいんじゃね」
「優しさ?そんなスキルありましたっけ」
「そろそろ泣くぞ、俺でも」
「えっ、南沢さん泣けるんですか?っていうかあくび以外に機能する涙腺が存在してたんすか?」
「どんだけだコラ」

気だるげに相手をしながらも会話は途切れない。
呆れたように子供を諭す年長者、にしては殺伐とした雰囲気が続く。
白々しさの極致ともいうべき態度が更なる暴言を生み、聞き流すに徹しかけた先輩の眉が幾らか寄る。

「お前俺に何の恨みが、」

言い掛けて止まる。倉間の視線がようやく南沢を向いた。
しまった、と思いきり顔に書いてあるのを見て、口の端が上がり一歩踏み出す。

「いいえーぇ?そんな仮にも先輩に恨みとかある訳ないですよ。 俺が我慢ならなくてキレたすぐ後に辞めてったとか、 退部後の校内であからさまスルーされたとか、ガチで何も言わずに転校しやがったとか、 対戦する形で会ったら俺に一言もないとか、革命選抜でまた他の奴らと組んでピッチに立ってたとか 根に持ってたりしません!全っ然っっ!」
「事細かにどーも」

一息で言い切った大層なようでいて主観と感情に基づいた理由の数々を受け、短い返事が落ちる。
勢いで叫んだ倉間は荒い息をひとつ吐き、当事者を睨み付けた。 相手は反芻するかのように一度目を閉じ、頭を掻きながら溜息をつく。 次に瞼を開ければ、笑いながら強い光を乗せて視線を飛ばす。

「さっきのを訂正してやろう、可愛さ余って憎さ百倍ってところか」
「っっ!?」

たじろいだ倉間が目を見開く。 南沢は口元を歪めて腕を伸ばす。

「お、正解?倉間かーわいー」
「アンタのっそういうとこがっ!」
「大好き?」
「しねっ!!」

愉しげな言い方がカチンとくる。荒げる声もかわすみたいに寄せられた、唇。
耳元で囁かれる疑問系に血が逆流するかのような錯覚を覚える。 無意識に力を込めて蹴り付けた先は、脛。まともな手ごたえが一瞬正気を取り戻させ、 怯んだ隙に手首が強く握られた。 ぎり、と掴む力は強い。自分を見る歪んだ表情は痛みによるものか怒りによるものか、それとも。 倉間の頭を駆け巡る思考はまとまる前に中断した。

「帰ってきた理由、教えてやろうか」

再度浮かんだ笑みは先程より濃く、薄暗いものを感じる。
獲物を捉えた瞳が倉間を映し、肩が跳ね上がった。

「俺もお前に対してはな、可愛さ余って執着百倍なんだよ」

力の入らない手のひらを舌がべろりと舐める。ひっ、と喉が鳴り、南沢がくつくつと笑う。
腕から肩から侵食していく震えが全身に達し、たたらを踏む前に背中を支えられた。

――逃げられない。

本能が知らせ、かくんと腕に凭れる。
相手が嬉しそうに瞳を細め、顔を近づけた。

「もっと俺に意識向けてこいよ」


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