埋め尽くす故意 試合が終わった。 憑き物が落ちたように笑うのを、やけに遠く感じて背中を見送ったのを思い出す。 控え室へ戻る通路の端、歩くたびに羽織ったジャージのファスナーの金属音が耳につく。 いつもは気にしないような軽い音なのに、今日はこびりつくみたいに響いてくる。 苛立ちがつのって早足になり、走る手前のスピードで前方に障害物を感知した。 反射的に止まり、視界に入った姿を睨む。 試合前には見慣れないと思ったのに、今はもう馴染んで見える、他のユニフォーム。 「よう」 「なんすか」 立ち塞がるように現れた南沢の挨拶は簡素。 決して良いとは言えない態度でぶっきらぼうに返すと、顎をしゃくって口の端を上げる。 「大事に着てんだなー、と思って」 「買う手間省けたんで」 握った拳を上着の裾に擦り付ける。思わず布を握り締めようとしてぐっと堪えた。今は、今だけは握れない。 そんな葛藤を知ってか知らずか、数歩離れた距離で肩から腕の辺りをなぞるみたいに指を動かす。 「少し大きいからあれだよな、萌え袖できるぞ」 「やらねーよ。なんすかその単語」 「じゃあ彼シャツならぬ彼ジャージか」 「その方向のネタもういいです」 世間話でさえない揶揄だけの言葉。おなじみだった、日常だったそれが耳障りで堪らない。 懲りずに重ねる馬鹿馬鹿しさに切り捨てれば、いよいよ相手の笑みが広がった。 「怒ってるだろ」 「割と」 「なんだそれ」 笑い声まじりの問いかけは不機嫌に答えた単語で掻き混ざる。 愉快げな声のトーンが上がり、吹き出して笑うとおもむろに手で電話の形を取る。 「留守電に、ふざけんなこのやろー!って入れたくせに」 「うっ…」 ジェスチャーを加えて再現される部分が芝居じみて鬱陶しい。 脳内で自分の行動が鮮明に浮かび上がって消えたくなる。 あの後、誰にも言わず転校していった南沢の行動で餞別の意味を受け取った。 とにかく腹が立って腹が立って直接文句を言いたいのに案の定電話にも出ないその卑怯さで 煮え繰り返ってメッセージ録音が始まった途端叫び散らした。 すぐさま電源ボタンを押して後悔したのは忘れたい記憶だ。 一瞬薄れた殺気にすました表情を取り戻し、南沢が手持ち無沙汰な指を振る。 「またなって言ったよ、俺は」 「そんなのアンタの…」 「勝手だな」 言い切り。倉間の返事など関係ないとでも言いたげな。 「でも言った」 細まる瞳が空気を変える。ひやりとしたものが背筋を走った。 「お前は雷門残ると思ったし、だからって今生の別れでもあるまいし。 ただ次に会えたとしてそれまで俺のこと考えないのも癪だなーって、だから」 「餞別?」 「嫌なら着ないだろ、普通」 「…捨てらんなかっただけです」 練習メニューを説明するかのごとく数え上げるのは理由だろうか。 押し付けられた物体は異様に存在感も重みもあって、まさに置き土産。 着ない選択肢はあった、確かにあった。クローゼットに突っ込むなりしまい込む手段もあったのだ。 それをしなかったのは自分の、南沢に対する未練でしかない。 僅か言い淀み、呟く倉間を満足そうに見遣り、相手の口元が弧を描く。 「お前の意識に残してやろうと思って」 愉悦を含んだ声が響いた。 「これでもお前のこと可愛がってたし?2TOP張ってたしお前も懐いてたし、それで渡せば邪険にもできないよな」 にこにこ笑いながら語る様はいっそ無邪気で、秘密基地を説明する子供のようなノリだった。 ただ表情はからかうのが楽しくて仕方ない底意地の悪いそれで、声色も明るいのに暗く感じる。 「着ないにしても捨てられないことで、ずっと意識に引っ掛かる」 一歩踏み出してくるその足が向かう先は紛れもなく、自分。片手を自然に差し出した。 「俺のこと、忘れなかったもんな?くーらま」 即座に上着を脱いで投げつけた。勢いよく頭からひっかぶせ、いけすかない顔を隠すことに成功する。 一瞬止まった相手の表情は全く分からないが、すぐ調子を取り戻して片手でジャージを取り除く。 「おいおい、また引っかかったらどうするよ」 「そのまま帰れ!」 大して乱れなかった髪を軽く弄り、掴んだジャージを一瞥して倉間を見る。 威嚇するのも気にせずに上から下まで眺め回し、さらりと言う。 「学ランもやろうか?ああでもさすがにでかいか」 「帰れ帰れ帰れ帰れ」 「そういう答えはいらない」 被せる罵倒を更に遮り、真顔でいきなり距離を詰める。 反応が遅れた倉間の肩を掴み、言い終わるが早いか口を塞いだ。 目を見開いたのを逸らさずに視線絡ませて、瞳が哂う。 突き飛ばすより先に歯を立てた。 「っは、噛んだ」 強く立てた箇所が傷ついて、相手の唇から血が滲む。 ほんのわずかな鉄の味に顔を顰めると南沢が実に愉しそうに声を上げる。 今にも笑い出しそうな様子は狂気じみていた。恐怖よりも嫌悪が勝る。 「そんなに嫌われたいんですか」 「嫌う?お前が?俺を?」 侮蔑を込めて問うた声は低く重い。 だが疑問の意味をなさない相手の声は笑いの深みに比例して高くなっていく。 鼻で笑って、肩に掛かる力が強まる。 「ありえないな」 力強く微笑む表情は本気だ。 「口塞がれる前に逃げろよ、どうせ無意識で俺には勝てないとか思ってんだろ」 「っ!」 頭に血が上った。馬鹿にするのでもからかうのでもなく、この男は事実として口にしている。 胸倉を掴んで瞳を見据える。待っていたとばかりに相手が告げた。 「好きだ」 殴られたような衝撃。 言葉の暴力だ。かつてないほどの致命傷を受ける。 「アンタ本当に最低ですね」 「これ以上ない褒め言葉だ」 「大っ嫌いです、その根性が」 「そうか、両想いだな」 殺気を膨らませる倉間に上機嫌な南沢。 棘しかない返答もポジティブに受け流し、沸点はとっくに超えた。 この期に及んで言葉遊びを続ける――否、本当にそう思っていることが分かりすぎるのが我慢ならない。 何の権利があって何の権限があって自分をここまで落とし込むのか、転がすのか。 掴み上げる胸元の生地、馴染みのない色。こみあげてくる数々の感情。 顔を歪めて唇を噛んだ。南沢が、再度微笑む。 「会いたかった」 柔らかい、慈しむような響き。視界を疑い、幻聴を疑う。 小憎らしいすかした顔から考えられないようなその表情。 喧嘩を売りに来たんじゃないのか、馬鹿にしに来たんじゃないのか、端から違うと分かっていた自問を繰り返して結論を遠ざける。 そう、ここまでが全てシナリオ通り、泣き出しそうな自分の歪んだ顔までが彼の目的。 このやり取りを楽しむために、煽りに来た。底意地なんてもんじゃない、もはや狂っている。 進む道に釣り針を垂らし、引っかかるのを待っていた。 憤り、プライド、遣る瀬無さ、感じた全部が音を立てて崩れ落ちていく。 最後まで崩れなかったものは―― 「………さいあくだ」 掠れた声を吐き出すと、南沢が甘えるように凭れかかる。 そっと、相手の頭を抱えて抱き締めた。 耳元で笑う気配がしたが、気付かない振りを決め込む。 どうせ、この男を受け止められるのは自分しかいない。 ――加害者ぶって満足すんなら、せいぜい付き合ってやるよ。 |