鎮静剤の用法ミス


寒い上に部活もない、冬が色濃く残る景色から逃げるように避難したのは図書室だった。
むかむかする。これといって理由もないけれど何もかもが癇に障る。
こんな時は何をやっても無駄で、誰かと絡んで当たり散らすのも嫌だから放課後に早足で訪れた。
どれが、じゃなくて全部が、すべてが、高まる不快感が口をつく。

「うぜーめんどくせーやってらんねえ、マジ、」
「みんな……ねばいいのに?」

思わず音を立てて立ち上がる。
後ろから物騒な発言を囁いてきたのはやはりと言うべきか南沢であり、椅子を鳴らした自分を嗜めるように人差し指を立ててみせた。

「しー、」

わざとらしいそのポーズも目や口元が笑っていれば揶揄にしか思えない。
幸い、司書は少し席を外しているようで特にお咎めもなかった。
テスト期間でもない放課後はもはや貸しきり状態である。
驚かせた分際で注意してきた先輩は睨むのも流して隣に腰掛けてくる。

「なんすか」
「機嫌わっる。お前の隣に許可いんの?」
「別に」

座り直して冷たく返せばいつもの調子で小憎たらしい。つい、と横を向けば笑う気配。
何も虫の居所が悪い時に増長する相手がくるなんてとことん厄日だと思う。
そんな倉間の心中を知ってか知らずか、南沢は何でもないように言葉を投げた。

「まあ、文句くらい好きに言えよ。許されるとこでならな」

分かったような口で言ったと思えば頭に手のひらの感触。
軽く、掻き混ぜるように撫でられた。ふいに跳ね上がる不快指数。
そっぽを向いたまま唇が動く。

「人が文句言った矢先に退部した人に言われても」
「お前ほんとそれ根に持つのな」

頭に置かれた手はがぽんぽんと叩き、呆れたような声が落ちる。
不機嫌に苦い思い出が重なって、つい声を荒げ首を動かす。

「あったりまえだろ!あの後、目ぇ合ったのあからさまに無視したくせに!」
「はは、記憶力バッツグン」

茶化すようなセリフに笑い顔、振り向いた視界に映ったのはまったく笑っていない瞳だった。

「先においてかれたのは俺だけど」

撫でる手が殊更優しく髪を触る。温かいその感触に何故か寒気がした。
え、と零れた音は酷く震えて、笑っていない笑顔がつられて歪む。

「あの日、河川敷行ったろ」
「、え」
「俺はグラウンドにいたぜ」
「……あ、」
「分かれ道、だな」

いち抜けた、と彼は言った。確かに言った。
皆、心が揺れていた。サッカーをしたい、楽しくやりたい。
新しく現れた監督の号令を何処かで受け止めていたのは事実で。
馬鹿馬鹿しい、意味がない、そう感じながらも倉間は河川敷へ足を向けた。
気になったから、理由はそれだけで、他の皆もいたことに安堵も覚えていた。
後から聞いた話、神童や霧野も近くにいたらしい。当時はシードとしての監視とはいえ、剣城でさえもそこにいた。
南沢だけがいなかったのだ。

頬を何かが伝い落ちる感覚。それが涙と気付いたのは目の前の南沢の反応だった。

「って泣くか?!そこまでのこと言ったか俺」

固まったまま涙を流す倉間に慌てた様子でポケットを探り、ハンカチを顔に放ってくる。

「ぶ」

反射的に手で押さえ、ぐしゃぐしゃ広げながら顔を拭く。勢いはさほどないくせになかなか止まらない。
無言で鼻をすすり続けるのを見守ること数秒、溜息が聞こえてきて肩が竦む。

――面倒だと思われた。いつも同じだ、また同じだ。

あのタイミングは絶妙すぎた。自分の発言が終わるのを見計らったように彼は去って行った。
自意識過剰だろうが知ったこっちゃない、倉間にはあの結果が全てであり、記憶だ。
悔しさと不甲斐なさでますます昂ぶり、泣きすぎて喉が鳴る。

「あー、ったく、お前が乗る電車はひとつなわけ?」

軽蔑が降ってくるのを覚悟した相手の言葉は迷うような困ったような謎の問いかけ。
泣くのを押し殺したしゃっくりが一瞬止まり、顔の状態も忘れて視線を上げる。
そこには頭を掻きながら表現を選んでいる南沢の姿。

「っく、?」
「乗り遅れたら諦めんの?乗り間違えた電車ならずっと乗ってんの?次の駅で急行連絡とかあるかもしんねーだろ」
「へ?」
「目的地へのルートはひとつだけかって聞いてんだ」
「え、と」
「安かった早かった覚えやすかった、選ぶ理由は人それぞれだ、最終的に間に合えばそれでいいんじゃねえの」

いつの間にか奪い返されたハンカチで顔を拭われる。あーあ、ぐちゃぐちゃだのきったねえだの好き勝手言いながらも何故だか楽しそうだ。 濡れる布の感触はさっきからひたすらに、優しい。
相手の詰問が頭を回る。責められているのか、自分は責められているのだろうか。
答えの出せないうちに涙は止まり、ハンカチを折り畳んだ南沢が満足げに唇を寄せる。
恐らく赤くなっているだろう鼻先に、触れた。

「同じ駅に着いてんだろ」

唐突に思考がクリアになった。
回りくどい、とてつもなく回りくどい。そしてキザだ。
固まって動けないのをいいことに鼻先に何度もキスを落とし、それはもう憎たらしい顔で微笑んでくる。

「機嫌直ったか?」
「うっせえ」

まとわりつく不快感は綺麗さっぱり消えていた。
誰のおかげかなんて思ったりはするものか、したくもない。
何より、自分が泣いたそもそもの理由はやはり言うまでもなく――
今こそ罵ろうと口を開きかけたところで、敵は思い出したように付け加える。

「虐めたのは悪かった」

倉間が毒づくのはただひとつ。
この男はいつも遅い。


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