知らぬは本人ばかりなり 別に何が、という訳じゃなかった。 バカ弟がジャガイモ野郎に懐いているのはいつものことで、癇に障るかと聞かれれば物凄く鬱陶しい、それ以外に答えはない。 だけどそれで悪態をついて終わるに留まらなかった原因はスペインがその場にいたせいだ。 アイツは暇でもない癖に何かのついでにうちへ立ち寄る機会が多い。 ヴェネチアーノは喜んでいつものようにハグをねだって、スペインも満面の笑みで抱きとめて猫かわいがりを発動する。 見慣れた光景が繰り返されるのを何の感情もなく見ているとジャガイモ野郎と目があっちまったのでとりあえず睨んでおく。 物凄く微妙な顔をされたが知ったことか、とにかく気分が悪い、機嫌が悪い。 それじゃあ出かけてくるねー、なんて音符でも飛ばしそうなのんきな声をかけジャガイモと連れ立っていったのはついさっき。 時間配分も考えないあのバカは案の定遅刻していて、あれじゃ目的地についた瞬間シエスタだの言い出しかねないだろう。 見送るでも無しに扉を閉めたら、相変わらずへらへら笑うスペインがそこにいた。 「んだよ。何か用か」 「特にはないで。強いて言うなら顔見たかってん」 てらいなく言ってみせるこいつに思惑も何もあったもんじゃない。わかってる、そんなことは随分昔から分かりきっているんだ。 それでも一瞬は嬉しいと思ってしまう自分にも心底嫌気が差す。吐き気がする。 「それにしてもあそこはほんま仲良しやねー、もはやラブラブの粋やな」 「うっとうしいだけだろ、あんなの」 「えー、そんなことないてー、イタちゃんめっちゃ可愛いしあんだけ熱烈にきてくれたら親分冥利に尽きるわー」 こっちの感情も知らずに世間話を続けるスペインはやっぱりスペインだ。両手を合わせてうっとりしたような表情で悦に入るのはやめろ、きもいから。 苛立ちが募る。 「っは!俺にそんなもん求めてんのか?」 「ん?ロマーノはロマーノでかわええで」 思わず吐き出した言葉に間髪入れずに当然の如く堪えてくるのはいつもの気休め。そうだ、気休めだ、そんなものは。 悪気の欠片もない表情がとことん頭にきた。 「シエスタするからとっとと帰れ、このボケ」 もう顔さえ見たくなくて、足早に自室へと向かった。 勢いのままベッドに突っ伏してしばらく、不快度が尾を引いてるせいで眠れるわけもなく、服のままベッドを転がる。 アイツが帰れば完全に一人だ。ちょうどいい、今は誰にも会いたくないし関わりたくもない。 口から零れる重い息、何もかもが嫌だけど、こんな自分が一番嫌だ。 「ロマーノ、シエスタせんの?」 降って来た声に飛び上がるように顔を向ける。覗き込む位置にあるスペインの、顔。 「っ、なんでまだいるんだコノヤロー!」 「俺、帰るゆうてへんもん。それにこんなロマーノ放ってったらあかん」 身体を反転させて逃げようとするものの、肩にかかった手がそれを引き止める。 痛くない、けれど離しはしないという意思の篭った力を感じてびくりと震えた。 「怒らせたん、俺?」 窺う声色は少し、弱々しい。 「聞くなら帰れ」 顔だけは背けて、にべもなく言い返すも、スペインは引かなかった。 「でも聞かなわからんて。な?ロマーノ、こっち向いて」 懇願のようでいて強制力のあるこの声が嫌だ。卑怯だ、こいつは卑怯すぎる。 いつだって俺はこいつの優しい諭し方にほだされて負けてしまうのだ。 「来い」 「へ?」 「いいから来いよ」 肩にかかる力に乗っかり、相手をぐらつかせ、そこから一気に自分の方へと引き込んだ。 見事バランスを崩して倒れてきたスペインにぶつかるように抱きついて転がって、俺は腕の中に納まる。 少しの沈黙、そして馬鹿の笑顔。 「なんやロマもこういうことしたかったん?いつでも大歓迎やで〜」 たぶん、それなりに痛かっただろうに不服も言わずに嬉しそうな顔でスペインは俺を抱き締める。 本当に馬鹿だ、こいつは馬鹿だ。 「ロマは意外と甘えん坊やからなー」 緩んだ表情で頬を擦り付けてくるこいつが憎い、凄まじく憎い。 反射的に顎に手を伸ばし、噛み付くように唇を重ねた。スペインが止まる。 何度かついばみ、唇の隙間をなぞる、ぴくりと震えた相手に気を良くし、間抜け顔を拝んでやった。 起こった出来事に対応しきれていないスペインは、ぽかんとしたまま固まるばかり。 勢いよく、蹴っ飛ばす。 ベッドから落ちる、鈍い音。胸の奥からじわじわとこみ上げる、何か。 「いいざまだ。ばーか」 自分はどんな顔で笑ったのだろうか、確かめる術はない。 「いったー……何すんねやロマーノ」 ゆっくり身体を起こし、頭を抑えるスペインの顔は見えなかった。 あーいたー、とか言いながらゆるゆる近づいてくる相手を浮かべたままの笑みで見遣る。 だが、俺のその顔を見たスペインは、それこそいつものあの緩い顔で笑ったのだ。 「ちょっと今のはマジ痛かったで」 俺が動くよりスペインのほうが早かった。さっきと同じように抱き込まれ、強く引き寄せられる。 拒否が全身を駆け巡り、無我夢中で脱げ出そうと全身で喚く。 「こら、暴れんとき。今度は痛くても離さへんよ?」 まるで子供の癇癪をあやす声。そう、これは子供の癇癪だ、わかっている、そんなことはとうの昔に。 堰き止めていたものが一気に崩れる感覚。 「怒ればいいだろ!わけわかんねーって!そうやって物分りのいい顔して!いつもいつもいつも! 甘やかすからっ…!お前が!甘やかすから、俺はっ……!」 滲む涙で視界がぼやける、それでも困ったように笑うスペインが見える。いやだいやだいやだ。 こうやってこいつは許すんだ、俺をまた許すんだ、ずっと庇護し続けるんだろう。 今にも零れ落ちそうな涙を指で拭い、やはり優しくスペインは囁く。 「ほら、泣いたらあかんて」 その、無償の愛情こそが俺を追い詰めているとも知らずに。 「離せ!意味もなく、んなことできるお前とは違うんだよ!」 力の限り叫ぶ本心、拭いきれなかった涙が頬を伝ってぽたりと落ちた。 ああもうだめだ、俺はもう駄目だ。絶望に感情を支配され、いっそ心ゆくまで泣いてしまおうか、だなんて思った時、ふわりと体温が頬に伝わる。 「何ゆうとんの、ロマーノ」 頬に添えられた、温かい手のひら。瞳にめいっぱいの優しさを浮かべた笑顔が胸を打つ。 「俺が慈愛の塊とでも思とる?」 見惚れてしまったと気付いたのは、細められた目が違う感情も宿して光った直後。 あ、と思う間もなく唇が塞がれた。投げてきた言葉を反芻する余裕もなく、情熱的なキスは唇をこじ開ける。 反応もできない舌を絡めとって吸い上げ、何度も角度を変えてスペインは口内を蹂躙した。 やがて糸を引いて離れた舌が、ぺろりと口の端を舐めた頃、息も絶え絶えに俺はスペインに縋りつく。 動けもしない俺の耳元に唇を寄せて、楽しそうに落とされる声。 「かわいいかわいいロマーノ。俺がお前に対して何考えとったか知りたい?」 猫撫で声、と言っていいくらいの甘い甘いその音は、愉悦を含んだ悪魔の囁き。 「知りたいやんな、俺のこと好きでたまらんのやし」 未だまともに喋れない俺は、やっと事態を理解した。 引いてしまったのだ、トリガーを。あるはずもないと思って撃ち鳴らした空砲は思わぬものを撃ち抜いて寄越した。 ないはずの弾丸が的を貫き、そして俺へと返って来る。 「嫌っちゅーくらい教えこんだるわ、隅から隅まで」 脳をぐらぐらとさせる宣言に、対抗するなんて俺には出来ない。 思わずきつくきつく目を閉じて、スペインの腕の中で身を固くした。 「ぷっ」 突如響いたそぐわぬ音は、紛れもなくスペインのもので、今のは何かと目を開けると今にも笑い転げんばかりの相手が必死に笑いを堪えている。 「っく、お前それはあかんやろ、あかん…くくっ」 とうとう耐え切れずに爆笑してみせたスペインは、呆然としている俺をよそにしばらくひたすらに笑い続けた。 段々と意識もしっかりしてきて、笑われていることに腹が立って睨みつけたところ、気付いたスペインがそれはもう楽しそうに言う。 「ロマは詰めが甘いなー、そこで怯えたら思うツボやで」 けたけた笑う様子があまりにしつこく、だったらどうした!と噛み付いた。それ以外に方法があるなら教えてもらいたい。 俺の怒りを受け流して笑いを納めてきたスペインは、見惚れるような笑みを浮かべて更に言った。 「征服欲とか舐めたらあかんよ」 どう答えたらいいんだ、それは。 もはや何も言えなくなってしまった俺の頭をぽんぽんと撫でて、また子ども扱いかと怒鳴りつける前にそれは爽やかな笑顔でスペインが告げる。 「とりあえず一緒にシエスタしよかー。起きたら俺んちでラブラブしよな」 「は?!」 らっ、な、なんて言ったこいつ、マジでなんて言ったんだ今。 「今日せえへんなんて言うてないもん。ここ汚したらロマーノ色々と困るやろ?」 有り難くもこっちの気持ちを察してくれた馬鹿はとてもわかりやすい説明をする。しなくていい、それは説明しなくていい。 ぱくぱくと口を開閉させるしかできない俺に殊更にっこり微笑んで、優しく優しくスペインが頬を撫でる。 「こんだけ煽ったんやから覚悟はええな?逃がすつもりないし、ゆっくり寝とき」 仕上げに額にキスひとつ。そのまま抱え込まれてしまっては、逃げ道なんてあるわけなかった。 結局、この体温に安心して寝てしまうのだから、俺も大概アホだと思う。 |