責任もってロスタイム 一人暮らしも随分と板についてきた――なんて口にすると笑われるかもしれないが、なんだかんだ誰かが傍に居た遊星にとってそれは慣れという名の別の寂しさだった。もっとも、そんなことを簡単に零すような性格でもなかったのだが。 シティへ残り、研究者として過ごして数年。それぞれの未来を進んだ仲間たちはジャックのキング返り咲きを皮切りに羽ばたいた姿を見せてくれた。見事ドクターとなったアキは若いながらも優秀さを評価され、毎日忙しそうだ。成長した双子からのメール着信に笑みを浮かべ、白衣のポケットへ端末をしまう。クロウも職務に追われているようで、昔と違って簡単に集まれなくなった。それでも隙あらばと飲みに誘ってくる友人の気さくさがとても温かい。平和は何にも勝る宝である。 詰まっていたプロジェクトを終えた翌日。目が覚めて一番に感じたのは、身体のだるさ。そういえば時間を気にせず寝たのも久しぶりだと一人ごちながら起き上がりかけ、ぐらりと揺れた。どうやら力があまり入らない。心なしか喉が乾燥しており、錯覚でなければ頭痛も僅かに。じわじわと覚醒していく中で、自分の状態を正しく受け入れるしかなかった。 「……風邪か」 原因は振り返るまでもなく過労だ。張り詰めていた気が緩んだ途端にきたのだろう。情けないが、なってしまったものは仕方がない。薬の買い置きがあったか思い出しながら、なんとかベッドを降りたところで机へ放置した端末が光った。発信者を確認せずに反射で出る。 「もしもし、遊星?」 「アキ」 通話口から聞こえる音に思わず驚きが混じった。 「なあに、私が連絡したらおかしいの?」 「いや、誰か確かめず出たんだ」 「やっぱり驚いたんじゃない」 くすくすと笑うアキにしどろもどろ謝罪を告げるとますますおかしそうな様子で声が震えた。ひとしきり笑ったのち、掠れた音をいぶかしんで彼女が問う。 「ねえ、電波のせい?少し声が違う気がする」 首を傾げる仕草が脳裏に浮かび、頷きながら風邪だと答えた。瞬間、アキの態度が変わった。熱はあるのか、動けるのか、てきぱきとこちらの状態を聞いた相手は真面目な声でぴしゃりと告げる。 「近くまで来たから寄るつもりだったの。今から行くから大人しくしてて」 途切れた通話から一時間もしないうち、玄関の呼び鈴が鳴った。買い物袋片手に訪れたアキは遊星の顔を見て一瞬だけほっとした表情を見せたが、すぐに引き締めて医者の顔になる。起きたばかりの自分へ手早く食事を作り、薬と差し出してから寝室を指した。 「シーツの換えはある?そのまま寝てちゃ駄目よ」 勢いに押され場所を伝えると、食べてる間にやっておくから、の言葉を残して足早に。ぼんやり見送った遊星は、目の前で湯気を立たせるスープへそっとスプーンを伸ばした。何はともあれ、温かいうちに頂かねば失礼だ。 キャベツたっぷり、ニンジンにウインナー、そしてマッシュルーム。コンソメで煮込まれたそれはとても優しい味がした。半分ほど食べたころ、シーツを抱えたアキが戻ってくる。 「食欲はあるみたいね」 「ああ、とても美味しい」 素直に感想を伝えると、ぱちり瞬く瞳。少しだけ視線を逸らし、照れたように。 「そう、良かった。マーサには敵わないかもしれないけど」 「そんなことはない、アキは料理が上手いんだな」 「もう、スープくらいで大袈裟よ。というか遊星、もしかして食事、疎かにしてないでしょうね」 笑った顔が、はた、と真顔になり視線を飛ばす。どうやら褒め言葉が墓穴を掘ったことに気付く。所詮は男の一人暮らし、自炊を全くしないとまでは言わないが、仕事が詰まればカップラーメンで済ます時もある。研究室へバランス栄養食も含めてストックしているし、どうしても効率を取ってしまいがちだ。沈黙から全てを察したらしいアキは片手を腰に当てる。 「毎食作れとまでは言わないし、外食でいいからちゃんと食べなさい。サプリや野菜ジュースもあるんだから」 遊星の体調を慮って説教はそこで打ち止めとなったが、食後ベッドへ寝かしつけたドクター・アキからありがたい宣言が付け加えられた。 「明日も大事を取って休むこと。見に来るから寝てなかったら怒るわよ」 それから数日、忙しい合間を縫って本当に彼女は訪れる。無理をするつもりもなかったので、遊星も大人しく養生した。過労と栄養不足が原因の風邪は三日目にはほぼ完治し、抜け切らない倦怠感との戦いが始まる。この少し辛い、というのが厄介で、普段の生活に支障はないが地味に消耗する。正直、少し根を詰めたくらいで体調を崩したのが悔やまれて仕方がない。 「やはり年だろうか……」 ダイニングでの夕食時、一口飲み込んで呟いた途端、アキが笑う。 「ふ、年って、遊星、あなたね」 肩を小刻みに揺らす彼女は随分と楽しそうだった。 看病と手料理の甲斐あって、仕事へ復帰して数週間。何かお礼がしたいと申し出たところ、D・ホイールの整備を頼まれた。そんなもの、礼じゃなくてもすると告げれば、少しお高いケーキセットで話が決まる。些細なきっかけは日常へ結びついて、それからちょくちょくアキは遊星の部屋に来るようになった。手料理のオマケつきで。 恒例になりつつある夕食の日、帰路にてクロウと出くわした。立ち話で盛り上がり、十分ほど経ってからついつい時計へ目が行く。気付いた相手が片手を上げる。 「お、悪ぃ。何か用事か」 「ああ、今日はアキが来るんだ」 「へえ。元気でやってんのか」 遊星の口から出た仲間の名前に興味津々と言った様子。かいつまんで風邪の看病からの経緯を話したら、クロウの表情が変わった。 「って、待てよ。そんな頻繁に会うのかお前ら」 「いや、アキも忙しいから週一くらいだが」 「十分だろ!彼女か!」 思考が一時停止する。力の限り突っ込んだクロウは気まずげに頭を掻き、本人の問題だけどな、と肩を叩いていった。言われた内容がぐるぐると回る。 「その、アキ」 「どうしたの?」 折角作ってもらったというのに、今日は味が良く分からない。集中できないまま平らげる訳にはいかず――味わえないのがそもそも辛い――突然浮上した問題点を指摘した。 「あまり男の部屋に軽々しく通わないほうがいいんじゃないか」 「え」 「俺も考えが足りなかったんだが、アキの立場もある。勘違いされると困るだろう?」 そんなことを気にした覚えもなかったが、自分とアキは世間から見れば男女だった。妙齢の女性が男の家へ定期的に通うなんて誤解じゃ済まされない。アキに迷惑が掛かるのは避けたい。 「そう、遊星は困るのね」 ぽつり、落ちた言葉はひどく冷たい。表情を消した相手に一拍遅れ、否定を継ぐ。 「いや、俺じゃなく」 「わかった!もう来ないわ!」 言い切らぬ間にアキは声を荒げ立ち上がり、走り去った。机に残った二人分の夕食はまだ温かい。追いかけることも出来なかった自分に頭を抱え、肘を突く。 傷つけてしまった。怒りに混じる悲痛な響きを確かに聞いた。最後に見えた横顔はもしかしたら泣きそうだったかもしれない。 転がったフォークを持ち上げ、皿の肉をひとくち。程よく煮た柔らかさが溶けるように広がる。美味しかった。 「――馬鹿だな、俺は」 あれから二週間、アキとは連絡すら取れていない。自分の仕事が立て込んでしまったせいもあるが、おいそれと声を掛けづらいのだ。あの後すぐに通話を試みたが出てもらえず、メールにも返事はない。そのまま研究に追われ、あれよあれよと今に至る。 研究室で伸びをして、昼食の袋を引き寄せる。買ってきた中にある野菜ジュースはもはや日課だった。パックへストローを差して飲みながら、ぼんやり思う。 分かっていたけれど認めないようにしていた事実がある。一人の食事は寂しい。今更だった。アキとの時間はもう日常の一部で、なくなるとこんなにも色褪せる。 ――このままでいいはずがない。 気付けば走り出していた。何度か前を通ったことはあるから場所は知っている。病院の入り口まで辿り着き、息を吐いてから問題に悩む。どうやって呼べばいいのか。 なんだか視線を感じる気もするが、不審者扱いされる前にとにかく聞こう。心を決めて、近くの看護士を呼び止める。 「あの、ドクター・アキは」 「もしかして不動遊星?!」 用件を言う前に騒がれてしまい、反応が遅れる。ざわつく周囲にようやく思考が戻り、用事を伝えた。慌てて呼びに行く背を見送り、集中する視線をどうしたものかと考える。自分も有名人だったことをすっかり忘れていた。 「すまない、連れ出してしまって」 「ちょうどお昼だったからいいわ」 遊星を見て驚きに目を見開いたアキはすぐさま我に返り、場所を変えましょう、と病院近くの公園へ連行した。 移動中はもちろん無言であり、気まずさの限界値はとっくに超えている。ここまでくれば言うしかない。先ほどから発せられる『言うならさっさとしてくれる』オーラがピークを迎える前に口を開いた。 「その、謝るなら直接にすべきだと」 「ふうん」 見つめる眼差しは絶対零度。腕を組む彼女に隙はない。 「言い方が悪かった。俺はアキと食事をするのは嬉しいし、いつも楽しみなんだ。やめたいとは思っていない。ただ、俺の部屋に通うのはあらぬ誤解を招いて迷惑が掛かる気がして」 「職場に会いに来てる時点でその誤解は更に広まったんじゃない?」 「!」 完全に失念していた事実に言葉を失う。これは火に油を注いだのではないか。弁解を整える前に、睨んでいたアキが声を上げて笑った。 「もう、思い込んだら一直線なんだから」 口元に手を当て笑みを零す彼女を見て、肩の力が抜ける。安堵したのが伝わったのか、あーあ、と両腕を上げて伸びをひとつ。 「来てくれただけでどうでもよくなったわ」 いつもの彼女に戻り、後ろ手を組んでくるりとターン。 「お昼休みが終わっちゃう。ご飯付き合ってね、遊星」 振り返りざまのウインクはとびきりの笑顔。頷いて返し、歩き出す。 翌週、一ヶ月ぶりに振舞われた手料理は心なしか品数が多かった。アキが好きだという甘めのシャンパンをグラスへ注ぎ、互いに軽く鳴らす。大して度数も高くないそれが回ったのか、やけにふわふわとする。否、本当はもっともっと前から感じていた。この雰囲気を、空間をいとおしく思い、だからこそ失いたくないと考えたのだ。 手を止め押し黙った遊星にアキが首を傾げる。静かに一呼吸、視線をまっすぐ相手へ向けた。 「アキ」 「なに?」 「風邪の時から、本当に世話になった。ありがとう」 「どういたしまして。改まって何かと思った」 「いや、続きがある」 瞬きの後に綻ぶ微笑み、それを受けた上ではっきりと。 「出来れば、俺以外にはしないでほしい」 今度こそ止まる時間、落ちる沈黙。少し俯いたアキが小さく呟く。 「馬鹿ね」 再び上げた視線は僅か拗ねたように見えて。 「遊星だからしてるのよ」 目元が染まって見えるのは都合のいい幻想だろうか。 「そ、そうか」 「そうよ」 上手く回らない口に答えた声はやっぱり責める色が乗っていて。お互い赤くなりながら、もくもくと食事を再開した。 |